7/31/2013

私の音楽ー13 バンド(続き)

学校卒業して札幌に赴任した。
札幌でははじめは知り合いもいなく、一人の生活だった。
大通りの5丁目あたりだったろうか、札幌コミュニティーセンターという場所があり(教会にもなっていたようだったが)そこでフォークソングの集まりがあった。
「札幌フォーク」と言ったと思うが古谷という人がやっていたと思う。その集まりに参加するようになった。そこでも一人でやっていた。

しばらくして札幌タウン情報誌にフォークソングの仲間募集を出した人がいた。Nと言った。
どういう手紙を出したか忘れてしまったが、とにかく一緒にやることになった。
メンバーはN(男性)とトッピ(女性)とひげちゃん(女性)ともう一人いたように思うが忘れてしまった。
何度か一緒に練習したと思う。とりあえず私が歌っていたジョン・スチュワートの歌とNSPの曲を練習した。

あまりに昔のことなのでどこでどう練習したか忘れてしまったが、一緒にコンサートに出た時のことはよく覚えている。
札幌フォークの人達が酪農大の人が多かったので彼らの地元、江別の公民館(だと思う)でコンサートをやった時に一緒にそのコンサートに出た。
体育館くらいの広さの会場だった。夕方からのライブだった。
客席側の脇に小さな窓があり、そこから外を見たら雪が降っていた。吹雪に近い雪だった。
街灯に照らされて降る雪が実際よりも激しく見せていたのかもしれない。
私達は2曲歌ったと思う。
その1曲はNSPの「さようなら」だった。
この時ステージの上で自分がギターを弾いていた感じを今でも覚えている。
私はたぶんギターを弾いてコーラスのところしか歌には参加していなかった。
でも、その時のことをとてもよく覚えている。
 
札幌での数年間は私は精神的にというか性格的にちょっとおかしかった。原因は一人で雪の中にいたせいだと思う(ということにしたい)。非常に自己中心的な人間だったと思う。
札幌フォークの中でも私は嫌われていたと思う。かなり変なやつだったのではないだろうか。
まともに付き合ってくれたのはNくらいだった。
 
自分でも自分が変だと気がついていた。しかし自分ではどうしようもなかった。
その最後の(札幌フォークにはそれ以来行っていない)コンサートの時に声をかけてくれた人がもう一人いた。確か長南と言った。彼は私のアパートにも来たことがあった。
彼が私たちの番が来た時、「あ、kogawaさんのギター聴こう」と言って楽屋から客席に走って行った。その言葉がうれしくてよく覚えている。
 
Nはその後も何度か東京・横浜の家に来てくれた。
今でもつながっていることがすごくうれしい。
 
 
 
 

7/30/2013

私の音楽ー12 バンド

高校の頃は前に書いたけれど、古いアメリカンフォークを2人でやっていた。
マイク・シーガー、ピーと・シーガー、ウッディ・ガスリー、シスコ・ヒューストンのような歌手の歌を歌っていた。

大学に入ってすぐにフォークソングクラブ(ASF Aoyama Singing Folk)に入った。

最初は一人でアパラチアン・マウンテンミュージックのような曲をやっていた。他にそういう曲をやる人はいなかった。



そのうち先輩がキングストントリオのバンドを組もうと言ってきて、私も好きなバンドだったので始めることにした。
一人(ボブ・シェーン役)は同じクラブの先輩だった。もう一人(ニック・レイノルズ役)は別の学校の人だった。 

このバンドは1年ほど続けた。
私はジョン・スチュワート役だったのでバンジョーとギターを弾いた。3人で色々なコンサートに出た。このバンドはとても楽しかった。ニュー・フロンティアズの瀬戸さんにも会って一緒に食事したりした。

1年間3人で活動して、私は同学年の2人とCS&Nのカバーバンドをやることにした。
 
 
主にCS&Nの曲をカバーするだけだった。このバンドはあまり楽しくなかった。
惰性で1年やった。 このバンドもいろいろなコンサートに出たが、あまり覚えていない。
覚えているのは豊島公会堂の観客がほとんどゼロだったコンサート。
このコンサートには「なぎらけんいち」さんや本田路津子さんも出ていた。

そのほかクラブでは女性と二人で歌っていたこともあった。イアンとシルビアの曲を何曲かやったと思う。

2年の終りだったろうか、3年の頃だったろうか、同じクラブのWilliamと一緒にクラブをやめることにした。Williamと私はそれまでにも一緒に音楽を作っていた。今からすると幼稚な音楽だが、当時は自分達で録音して音楽を作るということはとても面白かった。
オープンリールデッキを改造してエコーがかかるようにしたり、ミキサーを自作したり、エレキのイフェクターを作ったりして、そういう音を作ることが面白くて色々試していた。

Williamは藤沢に住んでいたので、藤沢でコンサートをやろうということになり、市民会館で最初のコンサートを開いた。私達の他にもいくつかのグループが出た。
その時はザ・バンドやザ・バーズなどの曲をカバーして演奏した。
その後何度か湘南でコンサートをやった。

私たちが湘南で活動していた頃、元の学校のクラブでは分裂騒ぎがあったらしい。
私はその時の詳細を知らないが、分裂したグループがクラブの設立メンバーに対して何がしかの問題提起をしたらしい。それによって何故か分裂組が元のクラブ名を名乗り、設立組があたらしいクラブを作ることになったらしい。
その時に私とWilliamと他のメンバーは分裂したグループの仲間と思われたらしく、その後ずっと私達にたいして謂れの無い差別感があった。



私とWillamとメンバーはレコードを作った。最初に作ったレコードはビニル盤だった。
鎌倉の知人宅に泊り込み何週間かかけて録音した。私たちは全員ヒッピーのような風貌だったので鎌倉山の人には怪しい人間と思われたのだろう。警察官が訪れることもあった。
しかし隣家がちょっと離れていたので、ドラムやエレキを鳴らしてもそれほど騒音でもなかったかもしれない。実際はわからないが。


このころは最高に面白かったし、楽しかった。
学校もサボっていたので一年留年することになってしまったが、この数年間は人生の中でもとても大切な時代だ。

7/29/2013

バイク motor bike

バイクの免許を取ろうと思ったのは32歳の時だ。
なぜそう思ったのか忘れてしまった。
会社が終わってから会社の50ccで自動車学校まで通った。

私が入学した時私以外はほとんど高校生だった。その外25歳くらいの女性と私よりかなり年配の男性が一人いた。つまり私達3人以外は高校生だった。
バイクはKawasakiの400ccでかなり重かった。
卒業試験まではかなりすんなりだったが、一度だけバイクをフェンスに乗り上げてしまったことがあった。バイクを押して転回させようとした時、アクセルを思い切り開けてしまった。
驚いて左手を開いてしまい、その瞬間バイクは教習場のフェンスを駆け上って行った。
幸い誰も怪我しなかった。バイクも無事だった。

卒業試験は同じ時に受けた高校生は全て受かった。25歳の女性もOKだった。
私の番になり急ブレーキも一本橋もOKだった。しかしスラロームでパイロンをひっかけてしまった。
一番簡単なところで落ちてしまった。
その時落ちたのは結局、私だけだった。
数週間後やっと免許を取得した。



免許をとってさっそくバイクを買った。Suzukiのアメリカンだった。
その頃は江東区の湾岸は全て空き地だった。13号地も今のお台場のあたりもビッグサイトのあたりも全部空き地だった。しかも空き地は区画されていて道路はちゃんと舗装されていた。
そこは車は来ないのでバイクの練習にはもってこいだった。
毎週末はバイクがたくさん来ていた。時々白バイのおまわりさんも来ていた。初めて白バイを見た時は取り締まりに来たのだと思った。しかし彼も一緒になってバイクを傾けて練習していた。

その頃会社に入ってきた元自衛官がいた。彼はCB250に乗っていた。
一緒にツーリングに行こうということになり、乗鞍岳まで行くことにした。当時は3000メートルまで自動車で登ることができた。


彼はとにかく止まらなかった。走り始めると止めない限りどこまでも走り続けた。往路は高速を降りてから乗鞍の上まで止まらなかった。さすがに帰りは途中で2回は休憩するように言ったので、
何度か止まった。
こっちは33歳、向こうは20歳そこそこの自衛官上がり。とても太刀打ちできなかった。

それからしばらくしてバイクを辞めた。雨の交差点でスリップしてちょっと怪我したのが理由と言えば理由だ。

去年(2012年)の夏、約30年ぶりでバイクに乗った。
バイクはレンタルバイクを借りた。
ロイヤル・エンフィールドの350cc単気筒だ。
茅ヶ崎で借りて伊豆を一周しようと思った。7月23日、真夏だった。
炎天下の運転を予想して通気性、耐熱性のジャケットを買って着て行った。これはすごい効果があった。とりあえず走っている間は暑さを感じなかった。

レンタルバイク屋で「30年ぶりなんだけど」という話をしたら店員が笑っていた。
「もう少し乗りやすいスクーターにしたら?」と言われたが、ギヤ付きでないと意味が無かった。 
バイク屋から国道に出る時は、ほんとうに30年ぶりにバイクを走らせる瞬間だった。
車が来ていないことを確認して、アクセルを強めに開けて、クラッチをつないだ。
バイクは大きくノックしたが無理やりつないで国道に入った。それ以降は非常に安定して運転し易いバイクだと思った。お尻に伝わるシングルのエンジンの振動が気持ち良かった。


朝一で小田原から伊豆に入り、伊豆半島の先端付近にあるスカイスポーツのスクールまでとりあえず走った。ロイヤル・エンフィールドは重かったけれど、低い回転でも力のある走りをしてくれた。
ビデオカメラをバイクのフレームに付けて撮影しようとしたが、振動が強くてすぐにカメラが外れてしまって撮影できなかった。

スカイスポーツのスクールは山の中の盆地にある。下でビールの6本パックを買い、腰に固定して山を登った。山と言っても舗装されているのでバイクは気持ちよく登って行った。
スクールは昔のままだった。知っているインストラクターに挨拶してビールを渡し、テイクオフまでバイクで上がる許可をもらった。
そこは私有地みたいなものだったので、ヘルメットをとってノーヘルで走った。
気持ちよかった。
途中で校長に会った。私のことをちゃんと覚えていてくれた。
テイクオフからは海が見え稲取や伊豆諸島も見えた。
パラグライダーで飛んでいる人に中にも私を覚えていてくれた人がいた。

しばらく山の上にいてから帰路についた。
帰りは海沿いの道をずっと走り、気持ちの良いツーリングだった。
バイクは一度のトラブルも無く帰ることができた。

今年もあれをまたやりたい。

7/28/2013

私の音楽ー11 コンサート

私はあまりコンサートに行かない。
今までどんなコンサートに行った書いてみよう。

・日本フィルハーモニー 渡邉暁雄指揮 
 前に書いた。たぶん生まれて初めて行ったコンサート。

・Flat and Scruggs 
 高校生の頃だと思う。新宿厚生年金会館大ホールだった。メンバーは5人だったろうか。
 有名な曲は全部演奏した。あまり記憶に無いが、とにかく明るいステージだった。

・David Blomberg
 これは札幌に居た時だ。札幌にはあまり来日アーチストは来なかったが、この人が来ることを
 知って是非行こうと思った。とても狭いステージだったように思う。場所はどこだったか忘れて
 しまった。メンバーはとても多かったように思う。6,7人いたように思う。
 デビッド・ブロンバーグはよくしゃべる人で同時通訳がおいつかないくらいしゃべっていた。
 トーキングブルースのような曲をやっていたが通訳が追いつかず何を言ってるのかほとんど
 わからなかった。
 ギターの演奏を期待していたが、あまりきわだった曲は無かったように思う。

・Amadeus String Quartet
 これはいつだったろう。たぶん1987年頃だと思う。場所も覚えていない。
 演奏は最高だった。弦楽四重奏をコンサート会場で聴くのはその時が始めてだった。
 フルオーケストラとは違った弦の音の細やかやに聞き込んでしまった。

・Kraft Werk
 これは中野のサンプラザだった。なんというか口パクでシンセを演奏していたような気がする。
 メンバーを前にしてレーコードを聞いているような感じだった。

・Tangerine Dream
 これは厚生年金だったろうか。場所を忘れてしまった。
 この時はLOGOSのツアーだった。演奏は素晴らしかった。
 全然曲の長さを感じさせないコンサートだった。

・Lee Oscar
 これは90年頃だったろうか。六本木の小さなバーでのライブだった。小規模のメンバーでの
 演奏だったが、素晴らしかった。パーカッションをやってた人はペッカー何とかと呼ばれていた。
 リーオスカーは単純なメロディーを死ぬほど繰り返すのが好きだと言っていた。

・Pink Floyd
 ピンク・フロイドは先に書いた1971年の箱根と1988年の武道館しか行っていない。
 1988年の時はロジャーは既に別れていたので、4人のコンサートは箱根だけだ。

・Simon and Gurfunkel
 これは最後のコンサートになるだろうということで行ったが、あれは後楽園球場だったと思う。
 会場が広すぎて音も悪く、最悪のコンサートだった。

・Neil Young
 友人に誘われて行った。ニールヤングの曲は結構していたので期待して行ったが、
 なぜだろうあまり記憶に無い。前半はアコースティックで後半はエレキのロックっぽい曲
 をやっていた。コンサートが終わって、あまり行ってよかったという感じがしなかった。

・Eagles
 これも最後のコンサートになるだろうということで行った。東京ドームだった。
 あまり印象に残らないライブだった。なぜだろう。曲はほとんど知ってる曲だったけれど。
 音があまり良くなかったからかな。

・Lee Ritenour
 六本木のブルーノーツだった。
 あれは何だったろう? とにかくすごく安い金額でチケットが買えた。
 このライブは最高だった。
 最初の1曲目が始まってすぐにのめりこんだ。全く時間を感じさせないすばらしいライブだった。
 あの時のバックの人たちも著名な演奏家ばかりだったようだ。
 リーリトナーは何度でも聴きに行きたいと思った。

・Livingston Taylor
 大人のコンサートというのはああいうのを言うのだろうと思う。
 渋谷のビル地下のバーでのコンサートだった。
 テーブルの数もそれほど多くなく、目の前に小さなステージのあるお店だった。
 ピアノかギターで歌うというシンプルな演奏だったが、これも最高のライブだった。
 ピアノの演奏も、ギターも非常に繊細で品位を感じさせる演奏だった。

・GLAY
 グレイは2度行っている。最初は付き添いで後楽園ドームまで行ってそこで別れるつもり
 だったが、列に並んでいた女性が「これよろしかったらどうぞ」と、チケットを2枚くれた。
 「え!?」と思ったが、そんなこともあるのだ。
 後から会場に入ってすっかり楽しんでしまった。
 グレイの歌は覚え易いので結構耳に残った。すごくいいコンサートだと思った。
 2回目は、横浜の日産スタジアムだった。
 一応、屋外だったので太陽が結構照り付けていたが、南側の席だったので日陰で助かった。
 あの席は本来は記者席だったようだ、机がついていた。
 この時のライブは最高だった。グレイは大きな会場で大音量で聞くべきと思った。

・・・ということは最後に行ったコンサートはグレイかもしれない。

7/27/2013

私の音楽-10 1971年8月6日 箱根の3

私達がいた場所から少しステージにに近づくと地面はステージに向かって登り坂になっていた。
そのため普通に座ることができなかった。また私達よりも後ろに方は反対にステージに向かって下り坂になっていた。私達がいた場所はちょうど谷になっていて横になっても転がることがなかった。


そのコンサートに来ていた人達の3分の1はピンクフロイドを知らなかったのではないだろうか、と思わせることがいくつもあった。私達の後ろのグループは5人くらいの男女だったが、終始おしゃべりをしていた。しかも非常にとんちんかんな内容だった。私達の右隣のグループはその中の一人はピンクフロイドを知っているようだったが他のメンバーは知らなかったようだ。
そういう私達のメンバーもPink Floydの名前は知っていたと思うが、私以外は曲は知らなかったようだ。次の曲が始まっているのに「これ始まっているの?」と聞かれた。

Atom Heart Motherの次の曲はGreen is the Colorだった。アルバムMOREからの曲だ。
隣のグループの人が「あれ?これどこかで聴いたことある」と言っていた。
ギルモアのちょっとハスキーな声が谷に響き渡った。
"Hevy hung the canoppy of blue", あの第一声は忘れられない。
彼の声が形を持って湖の方に流れて行くように思えた。
そのまま切れ目無く"Careful with that axe Eugine"につながる。
ベースの低音が盛り上がる中、ロジャーの絶叫が響き渡った。

次の曲はEchoesという曲だった。たぶん曲名をそう紹介したのは箱根が始めてだと思う。
ピアノの単音から始まる曲だが、いつ始まったのかわからない曲だった。
まだMeddleのアルバムが出ていなかったので、この曲を知ってる人は少なかったと思う。

しかし、この曲こそ箱根アフロディーテを伝説にさせた曲だと思う。
会場は雲の流れから、霧のようなものが流れ込んで来て会場全体を包んでいた。
その時の歌詞は今のような海をイメージさせるものではなく宇宙をテーマにした歌詞だった。
私はずっと雲の流れと霧の流れを眺めながら聴いていた。

Pink Floydは数多くのライブを行っているが屋外はきわめて少ない。しかも箱根のようなオープンな環境で演奏したことはたぶん他には無いと思う。
確かライブはCymbalineで終りだったと思う。
もうすっかり暗くなっていたと思う。

コンサートが終わって、元箱根まで歩いて、そこからバスで箱根湯本まで帰ったが、
バスは長だの列だった。歩いて帰ろうか、という案もあったが、それをするにはあまりに疲れていた。
やっと乗ったバスの中も混んでいてつり革につかまりながら眠りそうだった。

その後友人達とどこで別れたか覚えていない。
面白いことに箱根から数ヶ月して一緒に行ったRyuさんと渋谷を歩いていたら、箱根で隣にいたグループの男を見つけた。そこで少し話をした。

箱根の録音テープは、知り合い何人かにダビングしてあげたが、その時に「海賊版屋には売らないで欲しい」と言って4人くらいに渡したが、いつのまにかブートが出ていた。
なにかすごく残念な気持ちがした。

7/26/2013

私の音楽ー9 1971年8月6日 箱根の2

ホテルの縁の下は意外に乾燥していた
私はカセットレコーダを持って行った。A4サイズくらいのノートパソコンを分厚くしたような外観で、持ち手がついていた。本体にモノラルマイクが付いていたが外部マイクを付ければステレオ録音ができた。当時ステレオ録音できるカセットデッキはそれの他、もう1種類くらいしかなかった。
このデッキは非常に素晴らしいデッキだった。ただカセットを入れるところにプラスチックのフタが付いていたがそのフタはすぐに壊れてしまった。私の友人も同じものを持っていたがやはりフタが壊れてしまったそうだ。
そのため砂埃などに対して防ぎようが無かった。


そのレコーダをカバンに入れていたが砂埃が中に入ったようだった。持って行った90分テープのうち1本はちゃんと録音されていたが、もう1本は始まってすぐに録音できていない状態だった。
マイクはワンポイント・ステレオマイクを持って行った。
私達は朝早く起きてまず何か食べに行ったのだろうか、会場は午後からだったと思うのでたぶん何か食べてから行ったのだと思う。
昨夜の雨にもかかわらず会場への道はそれほどぬかるんではいなかったと思う。私達は比較的早く会場に入ったのでステージに向かって左側のけっこう前よりに場所を確保した。
場所は十分なスペースがあったので4人とも横になって寝ていた。そのため開演してから始めの方の出演者は全く見ていなかった。

私が目を覚ましたのは1910Fruitgum Companyが出てきてからだ。彼らがよく知っている曲を何曲か演奏しその後にバフィーセントメリーが出てきた。バフィーセントメリーはギター1本で歌っていた。とても上手かった。声もよく通る声でレコードよりも良かった。

その後がPink Floydなのだが、とにかくセッティングが長かった。ローディーのセッティングも長かったが、Pionk Floydが出できてからのチューニングも長かった。
ロジャーがローディーを真似して"one two  one two"とふざけて言っていた。
糸井五郎さんが彼らを紹介してメンバーが現れたがそれからもしばらく調整していた。
私はレコーダを一度切ってテープを巻き戻してまた録音し直した。

デビッドの声だったと思うが、OK! Let's goの掛け声で最初の曲が始まった。
1曲目は「原子心母」だった。オートバイのエンジン音で始まった。しかし日本で知られていたのはレコードで出ていたオーケストレーション版のものだったので、それが「原子心母」だとわかった人は少ないと思う。私は少し前にFENで放送されたオーディエンス録音のものを聞いていたので、「ああ、あれだ!」とすぐわかった。
すごい演奏だった。

会場は後ろを山に囲まれ、右手が湖になっていた。
Pink Floydが始まる頃は私達も横になって寝ていられるスペースは無くなったけれど、それでも足を伸ばして座っていられた。私はステージと山の方を交互に眺めていた。
デビッドのスキャットが始まった頃からだろうか、山から真っ白な雲が流れ降りて来ていた。
私はずっとその雲の流れを見ていた。
雲はステージをかすめるように飛び去ることもあった。
巨大なwemのスポーカーから出るベースの音が周囲の山に反射していた。
ひょっとするとエコーチェンバーの音だったのかもしれないが、私には山に反射しているように思えた。

7/25/2013

私の音楽-8 1971年8月6日 箱根の1

大学に入った次の年の夏にPink Floydが初めて来日することになった。
コンサート会場は箱根芦ノ湖、湖畔にある成蹊学園寮の敷地だった。私は何でそれを知ったか忘れてしまったが、たぶんFM放送だろう。チケットをどこで買ったかも覚えていない。いくらだったのかも覚えていない。
友人を誘って行くことにした。Pink FloydのMeddleもまだ出ていなかった頃なので、私以外はピンクフロイドをあまり知らなかったが結局4人で行くことになった。



パンフレットの書き込みを見ると私とYoshinoとRyuさんは新宿の高野前で待ち合わせたようだ。
1時にタカノ前、藤沢に3時と書いてある。
それもよく覚えていないのだが、小田急はロマンスカーを待って乗ったはずだ。
藤沢駅でもう一人Williamと合流して箱根に向かった。
コンサート会場の今。基本的にはあまり変わっていない。


藤沢に3時なので、箱根へ着くと当然夕方になってしまう。それもわかっていて行った。
コンサート当日に行くよりも前日に野宿して朝一で会場に向かおうと決めていた。
どこで野宿するかなどは全く考えていなかった。元箱根で夕食を食べたと思う。
その後何をしていたか覚えていないが、夜になって雨が降ってきた。
私達の他にも野宿を予定していた人たちが何人かいて、全員で10人くらいいたと思う。

とりあえず会場の方に歩いて行く途中、ホテルがあった。
そのホテルは「山のホテル」という当時は有名な高級ホテルだった。そのホテルの縁の下が広くてきれいな石が敷き詰められていた。
あそこがいい、ということになってそこにもぐりこんで寝ることにした。
いい加減眠ったころだったと思うが、ホテルからホテルマンが来て、そこで寝られてはまずから出てくれ、と言われた。
私達は雨が降っていることと他に場所がないことを理由に、そこにいさせて欲しいと言った。

ホテルマンは一度帰ったが、もう一度現れ、廃屋があるからそっちへ行ってくれないか、と言った。
私達はホテルマンの懐中電灯について行った。ホテルから少し湖岸の方に行ったところに廃屋があった。しかしその廃屋は崩れかかったいてとても寝られるような場所ではなかった。

ホテルマンも無理だとわかって、私達はまたホテルの縁の下に戻った。ホテルマンはもう出て行けとは言わなかった。
私達がまた縁の下に潜って眠ろうとしたが、真夏ではあったがやはり箱根は山だ。かなり寒かった。私は着ていたサファリジャケットを隣の友人と半分ずつかけていたがかなり寒かった。

その時、ホテルマンがまた現れて、手に毛布を何枚も持っていた。
これを使ったらいいよ、と毛布を私達に貸してくれた。これはほんとうに嬉しかった。
毛布があっても少し寒かったが眠ることができた。

その後、毛布を持ってホテルのフロントに行ったような記憶があるが、私達はきちんとお礼を言っただろうか。
それが心配でずっと後に「山のホテル」に泊まった時に当時の人が誰かいないか聞いてみたが、
もう当時の人は誰もいないということだった。ホテルも改築され私達が泊まった縁の下ももう無かった。





7/24/2013

私の音楽ー7 Something in the air

大学に入った頃、つまり学生運動が終焉を迎えた頃、「いちご白書」という映画が公開された。


この映画はアメリカでの学生運動を描いたものだったが、ほとんどの部分で日本大学の状況と
重なった。
日本でも、あの頃なぜあんなに皆活動的だったのかわからないが、ジュラルミンの盾を壁のようにして整列した機動隊や、バリケードの中のちょっと緊張した雰囲気は忘れることができない。

いちご白書のレコードにはサークルゲームから始まってニールヤング、CS&Nなど色々な音楽が
入っているけれど、私が一番好きな曲はThunderclap NewmanのSomething in the airという曲だ。
歌詞は今聞くとちょっと恥ずかしい内容だけれど、YouTubeを見ると世界中でこの歌のファンがいることがわかる。
歌の中にも「革命」という言葉が出てくるが、本気で革命ということを考えていたのはセクトの一部の人だけだったと思う。一般に「革命」と言っていたのは「革命的な何か」だったと思う。
誰も社会主義世界や共産主義世界は本気で望んでいなかった。当時の日本は十分社会主義的な
社会だったのだから。
現在の殺伐とした社会からするからするとあの頃の日本は温かだった。ただ直さなければいけない部分や、考えなければいけない部分もあった。
そこをもっと現実的に考えるべきだった。

あの頃は、空気の中の何かを感じた人が動いていた。
空気の中に何も感じなかった人は何もしなかった。
ということなのだろう。


7/23/2013

私の音楽ー6 ワルシャワ労働歌

初めて見たレ・ミゼラブルは舞台だった。相方に誘われて見に行った。
私はそれまでこの話を知らなかった。断片的には知っていたが、全てを知らなかった。
初めて観たときストーリーはあまり印象に残らなかったけれど、劇中の曲は覚えた。
その後、舞台や映画を観たがラストシーンでは涙を禁じ得なかった。

最後に全員の合唱で歌われるDo You Hear the People Singは完全に69年に重なる。
あの舞台や映画を観た同年齢の人達もそう思ったのではないだろうか。




あの歌というよりもバリケードと学生という設定がそう思わせるのかもしれないが、
当時デモや集会でよく歌ったワルシャワ労働歌を思い起こさせた。

Will you join in our crusade?
Who will be strong and stand with me?
Beyond the barricade
Is there a world you long to see?
Then join in the fight
That will give you the right to be free!

起て同胞よ 行け闘いに
聖なる血にまみれよ
砦の上に我らが世界
築き固めよ勇ましく

もののべさんの病院は「武蔵野・三鷹東大闘争救援会」という活動をしていた。
東大に限らず学生運動で怪我をした人の治療もしていた。
また催涙ガスが軍用の毒ガスに匹敵する猛毒であることなどを訴えていた。
逮捕され拘置所や刑務所にいた学生への援助もしていた。予備校生であった私も
何度か差し入れに行った。

もののべさんの病院には怪我をした学生がいつもいた。怪我をした女子大生がいた。
かわいらしい感じの女性だった。
寝ている場所を移動する時に男二人で彼女を抱きかかえて移動させた。
私は女性を抱きかかえたのはその時が生まれて初めてだったと思う。

催涙弾の水平撃ちを頭に受けて頭が陥没した学生がいた。
彼の傍に座って何か話をしたのを覚えている。場所は病院の中ではなかったかもしれない。
私が話していることはわかっているようだったが、彼は言葉が思うように出てこないようだった。

その病院にはいつも学生がいた。あまりにいつもたむろしているので、もののべさんが怒った
ことがあった。「お前ら何もしないでここに居るなら出てゆけ!」というようなことを言っていたと思う。

そこにはセクトも組織もなかった。中核の人がいた(火星ちゃんと呼ばれていたかな)、また革マル、ブントの人もいた。日中友好協会の人もいた。神学大の人や**重工の人や高校生もいた。
たぶん当時、そんな場所は日本中探してもあそこしかなかったと思う。

もののべさんには活動以外のことでも相談に乗っていただき、とてもお世話になった。

7/22/2013

私の音楽ー5 70年

高校3年になった頃は世の中は70年安保の喧騒の中にあった。
その10年前の60年安保の時は安保が10年間継続するということで死者(樺美智子さん)
まで出していたが、その条約が今度は永遠に継続されるというこで70年安保は絶対に
阻止しなければいけないという人たちと、当時日本が加担していたベトナム戦争への反対
運動と大学内の不正を正そうという動きの全てが重なって大きな動きになった時代だった。

高校3年の同級生にMという男(通称ブー)がいた。かれは非常に頭の良い男で成績も良かった。
しかし彼はなにかというと先生、学校に反発していた。私にはその理由がわからなかった。
しかしいつかのホームルームの時だったろうか、彼が言っていることが正しいと思えた。
それまで反戦とか安保とかいう言葉は自分とは関係ないものだと思っていた。
その時から私は彼と話すようになった。
彼は私をある場所に連れていってくれた。そこは井之頭公園の裏手の病院だった。
そこには学生や社会人の人たちがいて何か準備していた。
これからデモに行くということだった。

私も誘われて一緒に行くことにした。
デモは「ベトナム反戦ちょうちんデモの会」と言うデモで、吉祥寺から三鷹駅までをデモ
するものだった。
当時は学生運動のデモ、労働団体のデモ、政党系のデモ、ベ平連のデモなどがあったが
このデモはそのどれにも属さなかった。「もののべながおき」さんというお医者さんが始めた
ものだった。そのためそのデモには民青系(共産党系)以外の色々な人が加わっていた。
確か中核系の人と革マル系の人も一緒にいたと思う。

デモは歌を歌いながらゆっくりと歩くだけだった。その歌を先頭で歌っていたのがジロー
だった。ジローはブーともまた違った考えを持っていたと思う。二人が言い合っているのを
何度か見たことがある。
デモは暗くなって始まったが、その前に井の頭公園の音楽堂で歌を歌うのが常だった。


ステージのところは今と少し違うように思う。
ステージのすぐ下からベンチが並んでいたように思う。
ジローは沢山の歌を知っていた。いわゆる反戦歌もそのほかの歌も知っていた。
また彼の声はよく通る声だった。
彼が歌う横で私もギターを弾き一緒に歌った。
それはいわゆる新宿西口広場でのフォークゲリラ集会よりもずっと前だったように思う。

私達は吉祥寺駅でも歌った。歌ったと言ってもすぐに駅員に追い出されたが、何曲かは
歌えた。今は変わってしまったが、井の頭線から国鉄の改札に降りる階段の下のちょっと
広くなったところだ。

新宿西口でフォーク集会が行われるようになっても私達はすぐには参加しなかったように
思う。自分達はい主に吉祥寺・武蔵野を拠点にして活動していた。
ちょうちんデモの会は穏やかなデモだったが、確かジローの発案で自分達の旗を作ろう
ということになった。旗は真っ黒でそこに「西部戦線」と白で大きく書いた旗だった。
黒はどこのセクト、団体にも加わっていないという意味で、ヘルメットも黒だった。

その旗とメットでいくつかの集会に出かけた。その頃病院の隣の明星学園の生徒も
メンバーに加わっていた。彼らは高校生だったと思うが、ひょっとすると中学生だった
のかもしれない。男の子と女の子が一緒にいた。黒旗はたいていその男の子が持って
いた。ベ平連のデモには参加したことがなかったけれど、いつかの6月15日のデモに
参加した時、議事堂の近くの道路で前後を機動隊に挟まれて、圧死しそうになったこと
があった。その時も黒旗が一緒だったと思う。

東大が陥落した日、予備校生だった私は明治大学の校舎の中にいた。予備校闘争とか
言って討論会を行っていたグループにいた。そこで「東大に行ってみるか?」とか「行かない」
とか言い合っているだけだった。

西口広場に機動隊が入った日は覚えている。
そうなることは目に見えていたが、フォーク集会はいつのまにか学生運動に利用される形で
学生の集会、デモが行われるようになった。
機動隊が来たということで地上に逃げた。逃げた時に途中で靴を片方無くしてしまった。
ビルの陰でどうしようかと思っていたら、新聞記者が私の靴を持って来てくれた。

西口が広場でなくなってもジローは歌うことをやめなかった。みつかるとすぐに警官に
追い払われたが、それでも歩きながら歌っていた。

時間関係がわからなくなってしまったが、日比谷野音で高石友也が「フォークゲリラコンサート」
をやるというポスターだったかビラだったかを見つけて、確かジローの発案で、その
コンサートに行って話をしよう。ということになった。
その時は西口でフォークゲリラをやっていた人たちも一緒だった。

その時は私が西部戦線の黒旗を持ち、高石友也のステージに乗り込んだ。
当然のことだが全ての観衆のブーイングが私達に向けられた。
会場の後ろに確か「フォークゲリラ・・・コンサート」という垂れ幕がかかっていたと思う。
ジローがそれについて「なぜフォークゲリラ」なのかを高石友也に問いただしていた。
私の位置からははっきり話が聞こえてこなかったが、「わかったあれは降ろそう」
という意味のことを言っていたと思う。
その後はよく覚えていないが全観衆の帰れコールで私達はステージを降りたと思う。

ジローはいつからか、集会で「友よ」を歌うとき、
「夜明けは来ない~、夜明けはこない~」と歌うようになった。
私も一緒に歌った。


ジローがよく歌っていた歌の旋律だけを覚えていて、その歌が何なのか
インターネットが普及してからやっとわかった。
「思い出しておくれ」という歌だ。原曲はフィルオクス。
この歌をジローは軽快なリズムで歌った。

「思い出しておくれ、僕を・・」という歌詞は
ジローが私に歌っているように思える。

7/21/2013

私の音楽ー4 フォークソング

中学の頃
中学の頃はクラッシック音楽にのめりこんでいたので、自分で音楽をやる
というこは無かった。
兄はベンチャーズコピーバンドをやっていたが、私はエレキには全く
興味がわかなかった。それよりもクラッシク音楽のことしか頭に無かった。

日本フィルが当時テレビ番組を持っていて、その公開録画があった。
応募したら抽選で当った。
上野の文化会館だった。日本フィルの演奏で指揮は渡邉曉雄さんだった。
渡邉曉雄さんは長身で日本人離れした風貌でとにかく格好良かった。
曲目はベートヴェンの交響曲第6番「田園」全曲とブラームスのビオラと
チェロのための協奏交響曲の2つだったと思う。
でももう1曲アンコールで何かの序曲をやったような気もする。

演奏はとにかく素晴らしかった。開場と同時に走って一番前の席に座った。
そこから聞こえるオーケストラの音はレコードでは絶対に聴けない音だった。
それが良い音といえるのかどうかは知らないが、
最前列のバイオリンの音から最後列のコントラバスの弦をこする音まで
全て聞こえた。
コンサートが終わって家に帰るまでブラームスの旋律がずっと頭に流れていた。

高校の頃
中学の終りくらいからフォークソングが流行り始めたように思う。
記憶ではアメリカンフォークと日本のフォークはほとんど同時に始まったように思う。
アメリカンフォークでは「漕げよマイケル」(Highway men)や「花はどこへ行った」などが
歌われるようになった。「Tom Dooley」の方が先だったかもしれない。
日本では「バラが咲いた」が口火を切ったと言えるのではないだろうか。

とにかく高校に入った頃にはフォークソングブームだった。
私はどちらかというとアメリカンフォークばかり歌っていた。
下の写真は高校2年の時だろうか。
同級生の鈴木と一緒に文化祭で歌った時だ。
しかし何を歌っていたのか思い出せない。
私が弾いているギターは何だろう?底の方を見るといわゆるセミアコのような
金具がついている。
この頃自分のギターは持っていなかったので、誰かから借りたのだろう。



鈴木と一緒に歌ったのはこの時だけだと思う。
その後、中学の時に同級生だった石川と一緒に歌った。
その時はどこかのステージで歌うということは無かったと思う。
その頃、タウン誌でフォークソングのメンバーを募集しているのを知り、
連絡してみた。降矢という人が仲間を集めていた。
そのグループにはPP&Mをやっていたグループと他に何人かいたように思う。
私は降矢が古いアメリカンフォークを好きだったので、二人で演奏していた。
Cripple CreekやWildwood flower,Worried man,などの曲をやっていた。

二人では三鷹公会堂、神田の駿河台にあった小さな公会堂、ジャンジャンなどで
演奏したと思う。神田では高田渡さん、ジャンジャンでは名前を忘れたが誰か
女性フォークシンガーと一緒だった。

降矢は両国の「フォークロアセンター」を教えてくれた。
ダルシマーを見たのはそこが最初だった。
Jack Eliotの歌を聴いたのもそこが最初だった。

高校の時の同級生に久美ちゃんという女の子がいた。
久美ちゃんは同じく私の友人とデュエットを組んでいて、Ian & Sylviaのカバー
をやっていた。初めて彼らの歌を聞いた時驚いた。
久美ちゃんの声はシルビアの声にそっくりだった。これまでイアンとシルビアの
カバーバンドはいくつも見ているが、久美ちゃん達を超えるグループを知らない。
あの声をもう一度聞きたい。
久美ちゃんと一緒にやっていた男は私の親友だった。

高校のスキー合宿の時の写真。
37番が私。下の右端が久美ちゃん。







7/20/2013

私の音楽ー3

忘れないうちに書いておこう

高槻に転校した時、私は一人だった。
だから一人でよく出かけた。
家からちょっと歩くと阪急電車が走っていた。そして阪急の線路を横切って
(確か踏み切りだった)山の方に向かうと試験農場を通った。
試験農場を過ぎると国鉄の線路に出た。

国鉄の線路をくぐって山に向かう。
どうやってその山に登ったか覚えていないが、細い山道を登ると途中に
神社があった。その脇から道の無い渓流の跡を登ると山頂に出た。
山頂からは高槻の街が良く見渡せた。



たいてい一人でそこに登ったが、叔父さんと一緒に登ったこともあった。
兄とは少なくとも2回は登った。
二人で登った時は漆にかぶれて二人とも大変だった。
私はすぐに治ったが兄はなかなか治らなかった。

その頃流行っていた歌。
「上を向いてあるこう」
「Big John」「北風」「ローハイド」
覚えているのはこういう歌だったが、
「川は流れる」という歌が流行っていた。
この歌を聴くと高槻を思い出す。


私の音楽-2 学校放送

忘れないうちに書いておこう。

小学校の4年か5年のことだったと思う。
学校の各教室の黒板の上にスピーカーがついていた。
学校で必要な時にそこから放送があった。
確か黒板の右側にうす緑色のボックス(ギターのイフェクターのような)があり、
そこにロータリースイッチが付いていた。
OFFと小、中、大 の切り替えがついていた。

そのスピーカーで、あれはNHKの番組だったのだろうか?、
ラジオ番組が流れることがあった。
記憶にある一つは「マイクさん」という番組。
「マーイク、マーイク、マーイク、マイクさん」というテーマソングで
始まる番組だった。
内容は全く覚えていないがそのテーマソングだけを覚えている。

もうひとつは「森は生きている」だ。
実はこのタイトルは知らなかった。ずっと後になってあれが「森は生きている」
だということを知った。
この話の中に「十二月の歌」という歌が挿入されている。
その歌だけをはっきり覚えていた。
「燃えろ、燃えろ、鮮やかに~」という歌だ。
これが「十二月の歌」だと知ったのはインターネットが普及してからだった。

それは三鷹市立第六小学校の時の話だ。
そのあと大阪に引越して小学校5年の1年を過ごしたが、
その時の小学校は、高槻小学校の分校で、元は軍の兵舎だったと聞いた。
中学校の端の方に木造1階建ての校舎があった。
とてもボロだった。
そこでは特に音楽の経験は無かったけれど、
転校後、初めての音楽の授業で私が歌う声を聞いて
皆がきれいな声だ、と言ったのを覚えている。
その頃はボーイソプラノだったようだ。

浅野という男の子がいた。
帰り道が途中まで同じなので良く一緒に帰った。
その子がいつも「原爆を許すまじ」を歌っていたので、
すっかり覚えてしまった。

私の音楽-1 ラジオドラマ

「音楽」が自分の中に入ってきたのはいつからだろう。
幼稚園にも保育園にも行かなかった私としては最初の音楽
というのはやはり小学校の音楽に時間だったのだろう。
しかし小5年までの記憶には音楽の授業の記憶は無い。
学校よりもラジオ放送での音楽の記憶の方が古い。

テレビが生活に入って来る前はラジオが生活に入っていた。
子供向けのラジオドラマがいくつか放送されていた。
有名なところはネットで検索すれば出てくるが、私が記憶して
いるラジオドラマのテーマソングが今まで誰も言及していないと思う。

そのラジオドラマは確か「宇宙探検」と言った。
(これは宇宙人類ノバという名前だったらしい)
小学校の4年の頃だから1960年だったと思う。
ドラマの内容は全く覚えていないが、歌は覚えている。

--------------------------------------------------
きのう夢みたロケットが
きょうは飛び立つ宇宙旅行
君も私も手を振って

奥湾色の空を行く(注)
あーあー、宇宙、大宇宙
宇宙は僕らをよんでいる。
--------------------------------------------------
この歌の後に
作曲、宇野誠一郎・・・・
というナレーションが続くのを含めて覚えている。

それでそのラジオドラマをNHKに問い合わせしたことがある。
担当の人は色々調べてくれた。
しかしNHKのラジオドラマでは無いようです。
ということだった、それに宇野誠一郎さんにも直接聞いてくれた。
しかし宇野さんもその歌を覚えていないようです。ということだった。

たぶん宇野さんは無数の歌を作っておられたので、
昔のラジオドラマの全てを覚えておられなかったのではと思う。
とまれ、この歌が記憶にある最も古い何かのテーマソングだろう。

注:この「奥湾色」というのは「億万キロ」という説もある。
  私以外の人が「奥湾色」と書いていたのを知っている。
  もう子供の頃のことだし記述も音も残っていないのでなんともわからない。




7/19/2013

支笏湖

初めて支笏湖に行ったのは学生の時だ。
その時は確か雷雨の中を洞爺湖の方から上がってきたように思う。
それから何回行ったかわからない。
夏は夜中に行って恵庭岳側の湖岸で夜を明かすことが多かった。
支笏湖の朝は美しい。

これは夕方の支笏湖

夏休みシーズンが終わると人は少ない。
ほとんど一人で湖岸にいることが多かった。
夜中に空を見上げると星空がきれいに見えた。

対岸のモーラップ側の湖岸にはたいてい明かりが見えた。
夜明け前に三脚を立てて30秒くらい開放した。
現像してから湖底の石がきれいに写っているのがわかった。

支笏湖は週末に走り屋が走ることが多く、時々大破した車が
転がっていることがあった。

支笏湖の近くにオコタンペという湖がある。
展望台から見るとその対岸は絵のように美しい。
あの湖岸に一度行ってみたかった。

友人とボートに乗ったことがあった。
支笏湖の水はとても澄んでいて湖底が見えた。
湖底には大木が横たわっていて、ボートから見ると
とても不気味だった。

支笏湖は小樽の友人に頼んで自転車を用意してもらい、支笏湖から千歳
までサイクリング楽しんだことがあった。
緑がきれいでとても気持ちよかった。
あれをもう一度やりたい。

私が死んだら骨はあの湖に沈めてほしい。


これで、北海道は終りにしよう。

7/18/2013

積丹 1979年

北海道に行くまでは演歌というのはほとんど聴かなかった。
仕事場で休憩時間にパートの人たちが見ていたテレビで、
たいてい演歌が流れていた。
一緒に食事をしているとどうしても覚えてしまう。
北海道には演歌が似合うと思う。
いや、演歌の無い北海道の生活は味気ないもののようにさえ思える。

北原ミレイの「石狩挽歌」を聴くとこの景色を思い出す。
真っ白に波立った海と灰色の景色があの歌を思い起こさせる。

映画「駅」では八代亜紀の「舟歌」が流れるが、あの映画ほど北海道の
生活を思い出させる映画もない。時期的にちょうど私がいた時代だ。
舟歌は私が札幌を離れようかと思い始めたころにテレビでいつも流れていた。

中之島ブルースは私が札幌に赴任した頃にヒットしていた。
その頃は別に気にもならなかった。
しかし、東京に戻ってアローナイツ版のこの歌を聞いた時、
鮮やかに札幌の記憶が蘇った。
その時代がその時の歌を作っているのだろうが、
私には歌が時代を作っているように思える。

7/17/2013

円山

これは1978年頃だと思う。
北3西24を右折してここに出るとと思う。
会社に行く途中で写したのだろう。
ここは北1条通の交差点。この先右側に円山市場があった。
その手前に「みよしの餃子」という餃子屋があった。
おしんこうは食べ放題だった。
確かニンニク無しでも作ってくれたので、仕事の昼休みでも
食べられた。
その手前に八百屋があった。

円山市場の先、右側にとんかつ「トンキ」があり、その先に「ドンク」の
パン屋があった。ドンクでショコラを良く買った。今でもドンクのショコラ
を食べると札幌を思い出す。



今はどうなっているんだろう?と思ってGoogleで見たら、この道路自体が
広くなっているように思える。倍くらい広い。
これはレンズのせいだろうか?


7/16/2013

盤渓 1980

宮の森から盤渓に抜ける道が好きで良く走った。
途中で札幌の街が良く見える場所があった。ほんの一瞬なのだが
この場所以外では見えなかった。

その場所をGoogleストリートビューで探した。
左のり面の石垣からするとこの場所だと思う。
しかしストリートビューでは街は見えなかった。
たぶんGoogleが超広角で撮っているからなのだろう。
40年近く経っても右の資材置き場?と正面の木が変わらずに
あるのに驚く。


宮の森から盤渓に抜けて真駒内の方に向かう途中、盤渓神社のあたりで
虹が出ているのに気づいて撮った。 

盤渓からは手稲の方向に行くことが多かった。
平和の滝へも時々行った。

そういえば宮の森から盤渓の82号線に出るまでは砂利道だった。
今はずいぶん綺麗になっている。

7/15/2013

レストラン・喫茶店(札幌)


札幌のレストランや喫茶店のマッチが残っていた。
・びーばあ  このレストランは恐らく札幌でも一番最初に出来た
        ファミリーレスとランだと思う。
        あるとき友人が「面白いお店があるから行ってたらいいよ、
        と言うので行ったお店だった。
        その頃はほとんどのお店は、今のような丁寧でマニュアル通りの接客
        というのは無くぶっきらぼうな対応だったのが、「びーばあ」では
        店員は異常に丁寧な対応だった。
        今でこそ普通なのだが、その頃はそれが面白かった。
        「びーばあ」はほんとに良く行ったレストランだ。

・デイビークロケット 大通にお店があった。ここは「びーばあ」よりも後だったと思う。
        なんとなくアメリカンな雰囲気のお店だった。
        ここも良く行った。

・サンパルク これはあまりよく覚えていないが、札樽道路の西28丁目あたりにあった
        のではなかったろうか。

・緑苑  全く覚えていない。たぶんこのマッチを持っているのは渋谷にも緑苑
      という喫茶店があって、面白いと思ったからではないだろうか。

・ジャッキーペッパー  宮の森の東急ストアーの近くにあったハンバーグのお店。
              大きいハンバーグを、目の前で焼いてくれた。

・Windy West  ウィンディー・ウエストと言ったと思うが、東急ストアーの前の通りを
         宮の沢の方に向かった最初の曲がり角の所にあった喫茶店。
         1度か2度は入ったと思う。ガラスばりの明るいお店だった。

・とんかつ「とんき」  円山市場の並び、大通り側にあった。
             Googleでみるとこの左側の家じゃなかったろうか。

「とんき」のおじさんは確か東京から来た人で、初めて入った
時から、話が合って。よく通った。
大きなとんかつがおいしかった。
おじさんはいつの間にか居なくなってしまい、奥さんがしばらくやっていた。
奥さんはその後、北の方に郷土料理のお店をやっていたと思う。
「とんき」のおじさんとはその後、偶然中山峠で出会い。
ちょっと話をした。
そのことを奥さんのお店に行った時にしたが、
奥さんはどうも微妙な雰囲気だった。


・札幌駅の北側。北10条くらいだったろうか、定食屋があった。いつもホッケ定食
 を食べた。大きなホッケがおいしかった。
 冬のある時、このお店に行った帰りに事故を起こした。
 側面衝突だった。信号に気がついた時にブレーキをかけたが間に合わなかった。
 あの事故は札幌での一番いやな思い出だ。

・玉藤のとんかつも良く行った。確かテレビ塔の下あたりになかったろうか。

・ビクトリアステーション

宮の沢の方だったろうか。
ここも何度か入った。

・トムボーイ
これは手稲の方だったろうか。

札幌に居た時はほんとに良く外食した。
ファミレスは網羅したのではないだろうか。









7/14/2013

1977 America

In 1977, I went to US as a investigative tour.
We were 20 members and we visited many recording studios and 
audio factories. And that was the first time I went to America.

This picture was taken from the window of the hotel I stayed.
(No,it's wrong. I shot it from the bus window)
The hotel we first stayed was San Francisco Sheraton Hotel.  

サンフランシスコ・シェラトンホテルは古いつくりだったが、とても綺麗なホテルだった。

He is the president of our company and he is a person famous for the world. 
朝倉社長。
朝倉さんはすばらしい人だった。その後色々な人に出会ったが、
朝倉さんのようなすばらしい人物には会ったことがない。
朝倉社長は私にとてもよくしてくれた。しかし私はその恩に報いる
ことなく会社を辞めてしまった。


We went to many recording studios in San Francisco and LA.
Studios we visited were CBS studio , Wally Heider studio, Disney Studio,
Universal studio and some studios in LA.

Someone was whistling the melody of the movie "Close Encounters" in the echo room.  

Neumann's cutting machine. 

almost the same as my desk.


Mr. Asakura and .... I cannot recall his name but .....I think he is Mr Hori or Horie or ...

In the conference of Audio Engineering Society in LA. 

I cannot remember where this factory was. 



At Quad Eight

確かFairchildにも行った。しかしロビーで長いこと待たされ、
結局見学のアポはキャンセルされてしまって、中をみることができなかった。

この頃日本ではまだデジタル・オーディオ機器はほとんど見かけなかったが、
訪問したいくつのオーディオ機器会社ではデジタル機器を作っていた。
あるスタジオコンソールを作っていた会社で、デジタルリバーブ・エコーの
調整をしていた。ノブを回すとディレイ時間が段階的に変化して、
その頃は聴いたことの無い効果音だった。

*

朝倉社長は会社にNeumannのカッティングマシンを持っていましたが、
そのノイマン社の社長さんに会える機会を私に与えてくれました。
ノイマン社の社長は確か新しいく代わったばかりだったように思います。
ドイツ人の紳士でした。
朝倉社長とノイマン社長と私と、どうも3人だったような気がします。
テーブルで何か飲みながら話しをしたように記憶します。

あまり沢山のことを覚えていませんが、ノイマン社長の趣味のグライダー(ソアラー)
の話は忘れられません。
朝倉社長も飛行機の操縦をするので話しが合ったのかもしれません。

ノイマンさんは、自分がグライダーの乗る時のことを詳細に話されました。
セスナでトーイングして、ある高度になるとワイヤーを切り離す、
そうすると自分の耳にはキャノピーが空気を切る「サーという音」
しか聞こえてこなくなる。
という話しをされた時、ノイマンさんはその音を口で
「サーーー」と真似されていた。
とても印象的でした。
私がその後ハンググライダーをやろうと思ったのはノイマンさんの
話がそのきっかけだったのかもしれない。