9/29/2013

Dock of the bay


Otis Reddingの歌だけれど、この歌の様に一日中港にいて夕方日が暮れるまで
船の出入りを眺めていることができるのは、たぶん全てを失ってからだろうなと思う。
普通に生活できる状態だったらできないと思う。
 
 
 
たとえばこんな港で1時間海を見ていたら、そろそろ帰って何かしなければと思ってしまうだろう。
Otisの歌を聴いて、「ああ、こんなふうにのんびりしたいな、」と思ったこともあるけれど、
まあ、そういう日がいつかくるかもしれないけれど、その時は自分には何も守るものも、
支えるものも、しなければいけないことも、失うものも何一つ無くなった時だろうな、
と思う。
 
 
映画「イージーライダー」の始まりで時計を投げ捨てるシーンがあるけれど、今だったら
スマホを海に投げ捨てるシーンから始まるだろうな。
あの意味が今の若い人にわかるだろうか?
いや時計をスマホを投げ捨てることができるかどうかということではなく、
あの当時、時計を投げ捨てるということがどういう意味だったのかわかるだろうか?
ということなのだけれど。
今の若い人達はもうすでに時計を投げ捨てているように思えてならない。


 
 


9/27/2013

晴れた日には未来が見える

こういうタイトルの歌があった。
それはたぶん何とかいう映画の挿入歌なのだと思うけれど、原曲のタイトルは
On a Clear Day You Can See Foreverなので一般には「・・・永遠が見える」と
言われているらしい。
でも私は「晴れた日には未来が見える」という言葉の方が好きで、ずっとそれを覚えている。
 
晴れた日に空を見上げると未来の風景が見える。
それは子供の頃に描いた未来の風景だ。
あの街の中を空飛ぶ自動車や原子力飛行機が飛んでいる絵ではない。
 
人間のいない広々とした草原に朽ち果てた宇宙船が横たわっている景色だ。
緑の草原と青々と茂った森。
その中にぼろぼろになった巨大な宇宙船が横たわっている。
なぜかそのイメージが浮かぶ。
 
子供の頃に読んだSFがある。
確か「緑の宇宙人」と言った。
ネットで検索すると恐ろしく高値がついているが、あの本がそうだろうか?
その話は緑色の鱗を持った宇宙人が地球に不時着し、地球を救うというような
話だったと思う。
その不時着した宇宙船のイメージなのかもしれない。
 
今日は雲ひとつ無い青空だ。
空を見上げると未来が見える。
誰も行ったことのない遠く寂しい地球の景色だ。
でも、それがなぜか懐かしく感じる。
 
 

9/21/2013

ベルリンの壁崩壊

ずっと自分に関した出来事を書いてきたけれど、生まれてから今まで世界では沢山の
事件、出来事があったと思う。
その中でもう一度その時に戻って体験してみたいと思うのはベルリンの壁崩壊の時だ。

あの一連の出来事はあとになってテレビの特集や本で詳しく説明されてやっと全体を納得できた。
記憶の中では「ピクニック」や「メモのとり違い事件」や「チェックポイント・チャーリ」などという出来事
がばらばらになっていて、「ああそういうことがあったな」と改めて思うだけ。

ソビエトの崩壊からの出来事をもう一度リアルタイムで体験したい。
たぶん自分の生きた時代で最もドラマチックな出来事だったのではないだろうか。



9/18/2013

3・11地震とガイガー管と私とテレビの嘘  (東日本大震災の時)

あの日は別に何の予兆も予感もお告げすらなかった。
私はいつものように横浜の会社で毎日の作業をしていた。
棚に並べて置いてある機械をセットしてした。
最初の揺れで、「おお!大きい」と思った。
作業をやめて静まるのを待っていた。
でも1分を過ぎてもおさまらなかった。
その時に本当に大きいのが来た。

「ついにその日が来た!」と思った。
後に知り合いの何人かに聞いたがみな同じように思ったそうだ。
揺れはますますひどくなり棚が倒れそうだった。
私は棚を押さえながら「やめろー!もういい!やめてくれー!」と
大声で言っていた。
頭の後ろを何かが落ちて行った。
反対側の棚が倒れた。
一瞬だったが停電になった。
揺れていたのはすごく長い時間だった。

揺れがおさまった後、私の後ろに大きなオシロスコープが落ちていた。
あれが頭にぶつかっていたらただではすまなかったろう。
棚の上に置いてあったオシロは15キロくらいあったから。

棚以外のところもこんな感じ。
まあ、普段も同じような状態なのだが。

会社のある地区は特別区なので停電が無い。
一瞬停電したがあとは全く停電が無が無かった。
テレビをつけてみた。
震度の表示が見る間に大きくなって行った。
じきに津波の映像も入ってきた。

横浜では建物が倒れるほどではなかったが、アルバイトに出ていた娘が心配だったので
携帯に電話してみた。
電話は”すぐに”繋がった。娘も仕事を中止して家に帰るところだった。大勢の人で駅はあふれていて帰れない状態だったが、なんとか帰れるということだった。お互い泣きそうな感じだったが、
とにかく無事で良かったと思った。
電話を一度切って他の人とも連絡を取ろうと思い電話をかけようとしたが、もう回線がつながることはなかった。考えてみると娘に繋がったのは奇跡的なことだった。


私はチェルノブイリの事故の時にガイガー管を買っていた。もう30年近くも前のことだ。
この機械は単にガイガー管に入ってきた放射線の数を音で表すだけのものだ。
メーターがついているが、定量的な何かを示しているとは思えない。
当時5万円した。あの頃はお金があったんだなぁと思う。
このガイガー管で色々なものを調べてみたが、明確に何かを検知することはなかった。
感度を上げてテレビのブラウン管に近づけると「ボツンボツン」というだけだった。


福島原発の水素爆発の報道があったとき、「これはやばい」と思った。
テレビで学者が言ってることが大嘘だということはきいていてすぐにわかった。
いままでも原発関係の情報は大嘘ばかりだったから。

それで30年ぶりにこのガイガー管を引っ張り出してきた。
電池が入れっぱなしで腐っていたので、きれいに清掃して新しい電池を入れた。
電源を入れるとちゃんと動いた。

試しに会社のベランダや手すりを調べてみた。
やはり以前のように「ボツン、ボツン」と他の部分と変わらない音を出していた。
水素爆発の報道があってから、数時間おきに調べていた。

あれがいつだったか忘れてしまったが、ベランダの室外機の上を調べた時に
ガイガー管が「ボボボボ」と連続的な音出した。
「何!」と思い、ベランダの手すりを調べてみた。
音はさらにひどくなりブザーのような音で鳴り出した。
「これはだめだ!」と直感した。

すぐに家族全員に連絡して外には出るなと伝えた。
メールで知り合いにも知らせた。
一人の友人は「いまさら騒いでもしょうがないだろう」と言っていたが、
そいつの家は埼玉だった。
幸い家族はみな建物の中にいた。地下鉄と車で外に出ることなく家に帰れそうだった。

会社のベランダはマンションと同じように上には上の階の屋根がある。
だから手すりも室外機も空から直接何かが落ちてくることはない。
その状態で、あれだけの音で鳴っていたのだから、さえぎるものが無い場所ではどれだけひどい
状態だったかわからない。
ニュースでもどれだけの放射線量だったかが報道されたのはだいぶ後になってからだった。
あの日、あの時にどれだけの放射能が撒き散らされていたかわからない。

その日は結局、会社に泊まって外には出なかった。
家族にも外に出るなと言った。

あれから2年たって、依然として原発報道は嘘が多い。
東電は何もしていない。
汚染物質を海や空に撒き散らし続けている。

9/15/2013

エンジニア

エンジニアにはいろいろな部門があると思うが、
私はソフトウェア開発もやったがハードウェア開発が主だった。

初期のマイクロコンピュータ応用技術の分野には仲間が何人もいた。
ソフトウェアだけをやっていた人はまた別の人種のように思うが、
ソフトとハードを両方やっていた人種には共通するものがあったように思う。

<確認>
この手のエンジニアは頻繁に確認を行う。
同じことを何度も確認する。
だからきかれた相手も同じことを何度も言う。
特に現場ではメモを取れないことが多いので、聞いて確認する。
例えば何かの制御を行うためのビットを最下位にしたか最上位にしたか、とかだ。
基本的に確認は何度でも行う。
しかし、それがつい普段でも出てしまう。
同じことを何度もきいてしまい、「何度同じことを言わせるんだ!」と怒られる。
怒られたエンジニアはなぜ怒られたのかわからない。

<アルゴリズム>
同じ仕事をしていた若いエンジニアと一緒に仕事をしていて、アルゴリズムが同じだ
と思ったことがある。
一緒に機械調整をやっていて、お互いに詰めた仕事をしていた時、
そいつがコンピュータの日付設定をしていて、
「今日は何曜日だっけ?」ときいてきた。
私は他の部分を調整しながら「2」と答えた。
そのまま何の疑問も無く仕事を終えた。
あとで二人で「あれ良くわかったな?」と笑ってしまった。

<習性>
エンジニアは理科系の学校を出手いる人が多い。
そのため化学実験もみな同じようにやってきている。
ある会社の忘年会で若手技術屋が上司にビールを注いで回るときに、
どうしてもビールのラベルを上に回してついでしまう。
これはもうどうしようもない習性だ。
ある上司がそれに気が着いて、
「おい、そのラベルを回すのやめろ!酒がまずくなる!」
と言っていた。

<捨てられない>
ハード系のエンジニアは現場で何か直さないといけない時に、何でも利用できそうな
ものを使って直す。
だから普段も、もう必要ないものを捨てられない。
ハード系のエンジニアの家に行くと、どの人の家もジャンクだらけだ。

今のエンジニアはどうなんだろう?

9/14/2013

鉄塔武蔵野線

こどもの頃の三鷹は今とは全く違ってほとんどが畑と田んぼと林と野原だった。
小さな自転車でどこまでも走った。
あれは夏だ。
夏の記憶しかない。

未舗装の道路の土の匂い、草むらを走り抜けた時の草いきれ、雨が降り始めたときの道路の匂い、工事中のアスファルトの匂い、外れたチェーンを直した時グリスの匂い、
林の中を走った時の木々の匂い・・・

匂いだ。
記憶のほとんどは匂いだ。

映画「鉄塔武蔵野線」を見た時感じたのは匂いだ。
あの夏の匂いだ。
セミの鳴き声で感じるのは音ではなく匂いだ。
子供の頃を思い出したのではなく、あの匂いの世界に戻った感じだった。

それと「不安」だ。
子供の頃常に持っていたあの不安感は何だったんだろう。
どこに行ってもたえず心のどこかに不安があった。
映画を観ながらあの不安感を思い出した。

今、先の見えない生活をしていて、あの感じに近いと思った。
何が起きるかわからない、悪いことが起きるんじゃないかという不安。
この道でいいのか? この道で家に帰れるのか? という不安感。
子供の頃は家に帰れば親がいて、無条件の安心感が得られた。
しかし、今は親はいない。
安心できるものは何も無い。

ちょっと遠くまで来すぎた。
もう戻ることはできないから、
この道を行けるところまで行くしかない。




9/11/2013

Rod Mckuenのこと

いつロッド・マッケンを知ったのかはっきり思い出せない。
たぶんKingston Trioのレコードで知ったのが最初だと思う。
その頃、友人がレコードを貸してくれた。カーネギーホールでのコンサートの2枚組みだった。
そのアルバムはすばらしいアルバムだった。
それからほんとうに好きになったのだと思う。

何度かアメリカに行った時に本屋で彼の詩集を探して買って帰った。
4冊はあったと思う。
札幌に住んでいた頃も本屋で翻訳詩集を見つけて買った。
確か片岡義男さんが訳した本だった。
その本を含めて全てを無くしてしまった。
たぶん札幌から東京に引っ越す時に無くなったのだと思う。
今改めて読んでみたい気がする。

片岡義男さんの詩集で覚えているのは「サクラメントまでは」というタイトルの
詩だ。なぜかそのタイトルだけ覚えている。
できれば英語と翻訳の両方があれば面白いのにと思う。

ロッド・マッケンの詩の朗読のレコードはいくつか持っている。
一番好きなアルバムは「Winter」というアルバムだ。
このアルバムは厳冬の北海道でポット式ストーブの前で聴くのがベストだ。

詩の朗読のアルバムにはジェス・ピアスン(だったか?)や石坂浩二が朗読しているものもあるが、
やはりロッドマッケン自身が朗読していないといけない。
彼のかすれた声が一番合っている。




9/09/2013

AKIRA (大友克洋)

漫画AKIRAの中で2020年オリンピックが予言されていたと話題になっているが、
あれが予言していたのはそっちではなく、AKIRA自身だ。


このポスターを見ると福島の原発を連想しないだろうか。
あの話をリアルタイムで読んでいた人は少なからずAKIRAと原子力を連想していたと思う。
AKIRAは既に始動されている。
あれを鎮めるには絶対零度に保ってもう触らないことだ。
 
AKIRAの現物




9/07/2013

マツダ プロシード・マービー

これまで沢山の車に乗ってきたけれど、今は車を持っていない。全く車を必要としていないから。

最後に乗った車はマツダのプロシード・マービーという車だった。
この車は長さが5メートル以上あり、ハングを屋根に積んでも安定しているし、道路交通法にも違反しない。また車内はバックシートを倒すと平らな床の長さが2メートルくらいになり、ベッドのマットレスを平積みできる。従って後ろは完全な寝室になった。
仕事で出張に行った時などそこで一泊したり仮眠したりできた。
この車はとにかくものすごい距離走った。
東北から広島、和歌山まで何度も仕事で出かけたから確か最後は20万キロ以上走っていた。
その車に最後に乗った時にちょっと不思議な体験をしたのでそのことを書こう。

最後に乗ったのは静岡の車部品工場に行った時だ。
出かける時にエンジンをかけたらちょっと異音がした。ほんの瞬間だったのであまり気にせずに出かけた。工場まで何も問題なく、約束時間に間に合って着くことができた。
(今考えると、この時間に合ったというのも不思議だ。)

仕事は夜遅くまでかかってしまい、帰りは夜中の1時過ぎてしまった。
駐車場に戻って車のエンジンをかけようとしたが、なかなかかからなかった。
かからなかったというよりガリガリとひどい音がして回ろうとしなかった。
エンジンルームを開けて見たりしたが別におかしなところは無かった。

30分くらいやっていただろうか、最後に、これでかからなかったら工場に泊めてもらおうと思って、
セルを回した。
かかった。変な音も無く調子良く動き始めた。
エンジンを止めるのが心配だったので、工場の門で受付する時もエンジンを止めなかった。
東名に乗ってしばらくは何もなく順調だった。
もうすぐ横浜というあたりで「ゴー」という何かを引きずるような音がし始めた。
心配になって東名を降りてから車の下を覗いてみた。
でも別に何も異常はなかった。

一般道を走り、あと数キロで家に着くというあたりから異音が異常に大きくなってきた。
ガリガリと車の下に岩でも引きずっているような音だった。
もう一度車を停めて、下を見たけれど、別に何も引きずっていなかった。
その時、エンジンが止まってしまった。

もうだめかな、と思い、セルを回したらエンジンがかかった。
そのままゆっくり家までなんとか行き着いた。
家の前についたとたん、エンジンが止まった。
駐車場に入れようと、エンジンをかけたがもう回らなかった。

次の日の朝、修理工場の人に来てもらったが、エンジンは2度と回らなかった。
修理の人はミッションが完全に壊れてしまっていると言っていた。

マービーは最後の仕事に付き合ってくれて、私を家まで送り届けてから行ってしまった。
レッカー車で引かれてゆく前に「ありがとう」と言うと、涙が出そうだった。

それ以来、自分の車は持っていない。


 

追記:
この車を悪くいう人は多いけれど、これほど乗ってよかったと思う車もない。
小回りが利かないという人もいるけれど、駐車場で困ったことは無い。
バスの運転を見ればわかるように、要は運転の腕だ。
後尾のサイドライトを壁(やポール)にぎりぎりに持って行けば、たいていの
ところは入る。
それにこの車は眺めが良かった。運転席が高い。だからか助手席の人も
決して酔うことがなかった。
長いホイルベースのため非常に安定している。長距離はすごく楽だった。
あのデカさのため乗るとすごく安心感があった。
できたら、もう一度会いたい。








9/06/2013

Tangerine Dreamのこと

タンジェリン・ドリームのレコードは息子に買ってもらったCDが最後に買ったものだ。
そのCDは「フェードラ」。なぜか今まで買っていなかったものだ。

最初にタンジェリン・ドリームを聞いたのはいつだろう?と思い出そうとしてるのだけれど、
思い出せない。たぶんStratosfearが最初だと思う。

なぜそれを買ったのだろう?
何かきっかけがあったはずだ。
でも思い出せない。
その頃はPink Floydをよく聞いていた。だから札幌に住み始めた頃だ。
ちょっと思い出してきた。
アルバムの日本題は「浪漫」だった。それと、このジャケットだ。
たぶんそれで買ったのだと思う。

第1曲目がStratosfearだ。 Stratospherではなく-fearだ。
あまりがっかりした記憶は無いので、きっと気に入ったのだろう。
かなり何度も聴いた覚えがある。
「浪漫」というタイトルは実に的を得ていた。
このジャケットを見ながらStratosfearを聴くと、”この”世界に入り込むことができた。

次に買ったのは忘れもしないEncoreライブの2枚組みだ。

このアルバムは本当にすばらしかった。
今でもベストじゃないだろうか、と思う。
全曲すばらしい出来だと思う。何度も聴いて飽きが来ない。

タンジェリン・ドリームのCDは沢山買った。いちいち挙げるのが面倒なくらい。
でも1枚だけダメなのがあった。
これだ。

タンジェリン・ドリームの手がけたただの映画音楽(恐怖の報酬リメイク版)なのだけれど、
聴き始めて1分くらいでヘッドフォンを投げ捨てた。
なにか言い知れない恐怖感でいっぱいになって、我慢できなかった。
たぶんバッドトリップのフラッシュバックだと思うのだけど、
このレコードはその後30年以上聴いていない。


9/03/2013

Deep Gapへの旅(4) Doc Watson

この旅の目的がドック・ワトソンの生まれ育ったところを見に行こうというものだったので、
とにかくディープ・ギャップに行ってみようと思った。
持っていたレコードの地図ではよくわからないので地図を買った。Rand Mcnallyの大きな地図だ。
それには一応ディープギャップ周辺ものっていた。

ディープギャップはブーンから10数キロのところにある。しかしディープギャップのどこでドックが生まれたかは全くしらなかった。
高校生の頃からレコードで見ていたDeep Gapというところがどんなところかを見てみたかった。

この脇道だ。

とりあえずディープギャップの近くまで行ってみたが、そこからどう行っていいかわからなかった。
それで全くの勘でわき道に入ることにした。
わき道は感じとしては札幌の盤珪を走る道に似ていた。ブルーリッジというところ自体が北海道の雰囲気だった。たぶんその場所にポンと誰かを連れてきて「北海道だよ」と言ったら信じるだろう。

ディープギャップのど真ん中に着いたのだけれど、やはりドック・ワトソンが生まれた家を見てみたかった。それでそこにあったお店(洋服やカーテンの生地屋だった)に入ってきいてみた。
たぶんお店の人はDoc Watsonの家を知っていたのだと思うが、はっきりと場所を教えてくれなかった。「このあたりはみんなWatsonだよ」と言っていた。それでもしばらく話していたら「その次のわき道を入ったところだよ」と教えてくれた。

わき道は谷川に沿って登ってゆくような道だった。道の両脇にぽつんぽつんと家があった。
その道をどんどん登って行って、結局どこの家かわからなかった。
これ以上行ってもしょうがないなと思い、狭い道を車をバックで戻った。


バックで下まで戻るのは辛いので、どこかでUターンしようとしていた。
左側に家があり、その庭先まで道があったのでそこを使わせてもらおうと思った。
私は地図を見ていて何も見ていなかった。
その時友人が何か叫んでいた。
「ねえ!あの人、そうじゃない?!」と言っていた。
私もその人を見たが、「いや、違うだろう」と思いたかった。
すごく興奮していてその後どうしたかよく覚えていないが、すぐに車を降りて
訳を言わなくちゃ、と思っていた。

その人は手に大きなスパナを持ってこっちを見ていた。
私は確か5メートルくらい離れたところからまず挨拶したと思う。
その時にははっきりとその人がDoc Watsonだとわかった。
それから旅行中であることとか車をUターンさせたかったとかなんだか言ったと思う。
 
Doc and me

ドックが手にスパナを持っていたのは、ちょうどその時、機械のエンジンを直していたからだった。
彼は作業小屋で作業をしていて、私たちの車の音がしたので出てきたそうだ。
家の人が買い物に出ていて彼は一人だったそうだ。それで車の音がしたので帰ってきたのだと思ったそうだ。
でも彼のことだから車の音が聞きなれない音だと気がついたはずだ。それで大きなスパナを手に出てきたのだと思う。

彼はスパナをズポンのポケットにしまって、話をしてくれた。


私はマールフェスの会場やマールの庭を見てきたこととかを話した。
私も友人も非常に緊張していて、何かもっと聞いたり記念写真を撮ったりできたと思うのだけれど、
友人が撮っていたビデオだけが残っている。

彼にお礼を言って分かれる時に、
ドックは「カメラ持っているか?」と聞いた。カメラは車の中だった。
「友人がビデオを撮ってます」と言った。
そうすると彼は「旅を楽しんで」と言い、小屋に戻って行ったが、
その時「アーカンサスの旅人」を口笛で吹きながら歩いて行った。
あの口笛は私たちへの最高のプレゼントだった。

私はドックのような有名な人は街に住んでいると勝手に思い込んでいた。
よく考えたらドックはやはり田舎に住んでいるのだと思うが、
その時は思いもしなかった。

今思うと、全て幸運のせいで彼に会えたと思う。
また、高校生の頃に既にディープギャップでドックに会うことが決まっていたような気がする。

9/02/2013

Deep Gapへの旅 (3) マールフェス会場  the venue of Doc and Merle Fest

ノースカロライナに行ったのは1993年なので5年くらい前からマールフェスが行われていた。
行ったのは7月なので既にその年のフェスは終わっていたのだけれど、
会場の近くにマールワトソンを記念して作られた庭があるということで、そこに行ってみようと思った。
マールフェスのある会場はBooneからWinston Salemに向かう途中にあるWilkesboroという街のWilkes Community Collegeの中にある。
大学の駐車場に車を停めてちょっと歩くとその庭があった。
庭と言っても学校の敷地のほんの一角でビデオでドック・ワトソンが匂いをかいでいた花々と、
マールワトソンの写真付きの石碑があった。
そこで撮った写真がみつからない。

マールフェスの会場はどこだろうと思い、近くにあった事務所に入ってきくことにした。
するとちょうどそこがマールフェスの事務所を兼ねていたようで、我々が日本から見学に来たというと、女性の事務の人が鍵の束を渡してくれた。「これがバックステージの鍵だから、開けて入るとすぐに電灯のスイッチがあるから、電気つけて見学していいですよ。あとで電気を消して、鍵をかけて戻ってきてください。」と言う。
「え?」と思った。友人と「いいのかな?」と話しながら会場に行ってみた。

広いグランドの端に見たことのある建物が建っていた。
そこがステージだとすぐにわかった。

左がグランドと思っていたが観客席というのが正しいのかも。


この建物も見覚えがあった。この前でJohn Hartfordがバンジョーを弾いていなかっただろうか。

ステージ
ステージの右側後ろにバックステージの入り口があった。

鍵を開けて電灯をつけたらほんとに驚いた。
中はドック&マール・ワトソンの殿堂になっていた。
廊下にはびっしりと写真が飾られていた。

フェスティバルに関係する人達の写真。
左上のオートハープはマイクシーガーか。


もちろんここは楽屋になっていて、たぶんこの年(1993年)のマールフェスの
出演者達へのメッセージがそのままになっていた。
長居をする人がいるらしい。


これもメッセージボード。
スケジュール時間を守るように

マールのイラストと沢山の人のサイン


キッチン。
ここは入って良かったのかどうか不明。

楽屋の一角

楽屋の一角

第1回マールフェス出演者への謝辞
"Doc", Rosa Leeを筆頭に家族から出演者に

第3回(1990年)マールフェスのポスター

このノースカロライナへの旅行は奇跡的というかラッキーな出来事がいくつかあったけれど、
このバックステージを見れたのは、思いもしなかったラッキーな出来事だった。
その事務所の人にマールフェスの案内を送ってもらえますか?と聞いたら快く受けてくれた。
その後3年くらいは案内を送ってくれた。でも行ける機会が無かった。


9/01/2013

Deep Gapへの旅 (2) Canton Pickin' in the park

今から20年前ってインターネットはどうだったんだろう? と今思いだそうとしても
あまり思い出せない。
しかしCanton NCでPicking in the parkというお祭りがあるということはインターネットで知ったはずだ。そこへ行ってみようと思った。
Booneからは160kmくらい離れていた。
とりあえずI40に向かったが、途中Hickoryを通る。そうかここがヒッコリーかとちょっと寄り道をして
家具屋を見て楽器店に寄ってみた。
楽器店は小さなお店だったけれどすごくきれいなダルシマが何台もおいてあった。
非常に欲しかったけれど、いいものは値段が結構したので買わずじまいだった。


40号線に乗ってBlack Mountainを過ぎ再びAshevilleを通り過ぎると程なくCantonの看板が見えてきた。Cantonで降りてとりあえず泊まる予定のホテルを探したが、ホテルは40号線のすぐ脇だった。

ホテルの窓からの景色。
この町は林業の町だったのだろうか。

ホテルからPicking in the parkが行われる公園まではそれほど遠くなかった。
途中小さな街があり、そこでピザを買ってから行くことにした。ピザ屋の店員のミスで注文が消えてしまっていて、お詫びにと大きなピザを2枚くれた。これを食べるのは大変だった。


だだっぴろい公園の一角にステージがありそこでBluegrassやcauntry musicやクロッギング(clogging)をやっていた。演奏もダンスもみなすごく上手い。当然かもしれないけれど。

この観客のおデブさんたちとは対照的に、クロッギングしている人たちは見た目に高齢ではあるけれど、みなスマートで結構激しい動きをしていた。

この公園にいたアジア人は我々2人だけだったと思う。他はみな地元の人たちだった。

この右端で切れてしまっている女性だけれど、隣に座っていて、話しかけてきて、
何か話をした記憶がある。何を話したか思い出せないのだけど、
彼女はずいぶん気さくに話をしてくれた。

もう一人年配のじいさんが話しかけてきた。
ちょっと危なそうなじいさんで名前をWalking Stickとか言ってた。
何を言ってるかあまりよくわからなかった。
そういえばホテルの受付の短パンのお姉ちゃんもすごいなまりで
何言ってるかわからなかった。

CantonのPicking in the parkは行ってよかった。
行ったのが7月だったので、フォークフェスティバルなどは皆春に終わってしまっていたので、
生のブルーグラスやカントリーを聞けただけでも嬉しかった。