10/31/2013

三鷹の記憶 (12) 行商

六小(三鷹市立第6小学校)の東門の前にはよく業者がいろいろなものを
売りにきていた。昭和34,5年の頃の話だが。

●型抜き  今でも時々見るが、どうすればいい出来になるのかわからなかった。
●ヒヨコ   一日で死んだ。
●万華鏡  これは遊べた。
●夜光   小さな般若のお面を覚えている、他にも種類があったのだけれど、
       思い出せない。あの当時は放射能物質を使っていたと思う。それが問題に
       なったのはもっとずっと後だったと思う。
       みんな手の中で光らせて遊んでいた。
●キビガラ鉄砲  こんな格好だったと思う。
           キビガラを穴に詰めて、後ろから押すと「ポン!」という音がした。
           
            キビガラは飛んだのかな?覚えていない。

●輪ゴム鉄砲  これは買わなかった。というかちょっと高かったように思う。
           針金でできていて引き金を引くと輪ゴムを飛ばすことができた。
           2連とか3連とかもあったと思う。
           構造をはっきり覚えていない。
            基本形はこんな感じだが、針金をたくみに曲げたりして、
見た感じかなり格好良かった。 

●謎のガラス  これは万華鏡ではなかった。ガラスを3枚合わせて切り口を黒いパテ
          で固めて一応安全なようになっていた。長さは5センチくらい。
          万華鏡なら断面は正三角形だと思うが、これは直角三角形だった。


          ガラスは暗い緑色だったように思う。中に水が入っていた。
           横から覗いても特に何かが見えるわけではなかったように思う。
           
            あれは一体何だったんだろう?

●日光写真  これは印象に強く残ってる。
     
      値段は忘れたが、印画紙が何枚かとサンプルのネガが何種類かと台紙がセットに
       なっていた。後で学校の授業でやったのとほぼ同じだった。
        これは太陽にしばらくあてておくときれいに絵が焼けた。でもそのまま置いておくと         
        真っ黒になってしまった。あれはお酢が何かで固定できたのかな?
 
他にも何か売りに来ていたように思う。
あの頃は結構それを楽しんでいたように思う。
 
 


   

10/29/2013

三鷹の記憶 (11)一中

三鷹市立第一中学校に通っていたのは、1963年から3年間だと思う。
あまり楽しい思い出は無い。
勉強してただけのように思う。

1年の時は一応部活をやっていた。陸上部だった。
一中は100メートルのコースを直線で取ることができた。しかも前後に余裕があった。
トラックも確か一周200メートルが余裕でとれたと思う。
10周で2000mだったように思う。
短距離は自信があったのだけれど、長距離がぜんぜんだめだった。1000m走るともう
バテバテだった。それで主にハイジャンプをやっていた。
あんまり走らなくていいし、楽そうだったから。
部長(小川さんって言ったかな?)は厳しかったかれど、あまり無理を強いるひとではなかった。
いまでもその感じを思い出す。



正門の前には第一パンの工場があって、売店が道路脇にあった。お昼はよくそこで
パンを買って食べた。
正門の左側に体育館があった。前にも書いたが、NHKの喉自慢をやったことがあった。
バイオリンの潮田益子さんのコンサートを観たことがあった。あれは確か音楽の先生の
中村彦作先生の教え子だったからではなかったろうか。
中村先生はひどい訛りがあったけれど、明るい先生だった。音楽の時間は楽しかった。
音楽室は校舎2の一番東のはずれの2階だったと思う。黒板の両側に大きなダイアトーン
のスピーカーがあって、それでレコード鑑賞をやることが多かった。
その頃はクラシックオタクだったのでその授業をよく覚えている。

校舎3は確か技術家庭課の教室があったと思う。真空管ラジオを組み立てたことと、
何か木工をやったのを覚えている。木を切るとき丸鋸盤で切ったのだけど、それは
先生が切ったように思う。木っ端で板を抑えて切っていた先生を覚えている。
その先生の名前は思い出せないけれど容姿はよく覚えている。

私は2年、3年は図書委員だった。確か図書館はここにあったと思う。
ずっとそこにいたと思うのだけど、高校の図書館ほどは覚えていない。

校舎1の1階に職員室があったと思う。
3年生の時はその校舎の2階だったように思う。
校舎1と校舎2の間には庭があって何か植物が植わっていたと思う。
渡り廊下が2本あったと思う。

あと何を覚えている?

「科学教室」というのがあった。
あれは推薦だったのだろうか?小平の中学校に出向いてそこで科学の授業を受ける
というものなのだが、私はそれに行きたくて担任の先生(橋本先生)に頼みに行った。
そうしたら先生に「あれはお前、Kのような優等生が行くものだぞ」と言われた。
すごくショックを受けたのを覚えている。しかし、しばらくして先生に職員室に呼び出されて
「お前に行ってもらうことにしたから」と言われた。うれしかった。
小平の授業は12人くらいだっただろうか、少人数ですごく面白い授業だった。
しかし、私が全く知らない言葉が出てくることがあった。私がまだ習っていない事だった。
今思うと、ああいう授業を全員にやるべきだったと思う。

あと何を覚えている?

工藤君が亡くなった話を聞いたのは校舎1だった。そうか、工藤君はもうすぐ卒業する
ところだったんだ。

小学校4年の時に一中のグランドで模型飛行機の大会があった。
私はそれに出て確か10位に入った。グランドの真ん中あたりから飛ばして
何回か旋回して東のフェンスのあたりまで飛んだ。
あ、あの時は2回飛ばしたんだった。1回目でフェンスにぶつかって翼の一部が曲がって
しまった。それを直して、2回目を飛ばしたんだった。
壊れていたのに良く飛んだと思う。
何か賞をもらったって、あれくらいだな。

10/28/2013

三鷹の記憶 (10)第九書房

三鷹駅の一番古い記憶は、駅前(南)の広場は少し盛り上がった感じになっていて、
車は駅舎の前に停められた。という記憶なのだけれど、それは本当の記憶かどうか
わからない。何かの写真で見たものを覚えているのかもしれない。
駅舎は当然1階建てでどこかの田舎の駅のような感じ。

次の記憶はそのバスが着くすぐ脇の1階で切符を売っていなかったろうか?
1階で切符を買って渡り廊下を渡ってホームに行く・という感じ。
それはたぶん小学校6年だな。それ以前は主に吉祥寺駅を使っていたから。

駅舎が2階になってから、各バス停の方に渡り廊下がなかったろうか?
なんか記憶にある。山中住宅方面大沢行きはその廊下を斜めに渡る。
その廊下を降りた・・・降りるところはどうなっていただろう?・・・ところに
第九書房があった。
付けてくれる表紙が好きだった。なんか古風な・・・どこかに残ってないかな?・・・
威厳のある感じの表紙だった。

第九書房の中はこんな感じではなかったろうか・・・かなり適当だが。

 
端の入り口を入ると奥におじさんが座っていた。私はそのおじさんが好きで
いつもおじさんの方で買っていた。
おじさんの前の書棚にブルーバックスがあった。そのあたりで本を探すことが多かった。
入ってすぐ右手にもレジがあったと思う。
おじさんの前あたりが文庫本がたくさん並んでいたように思う。
雑誌はどこにあったろう? 壁側だったかな。
 
床は途中で段差が無かったろうか?
左側は一段低くなっていたように思うけれど・・気のせいか?・・
 
まあ、私の記憶ではこんな感じなのでいつまでもこのイメージで覚えているだろう。
よく入った本屋にしてはあまりよく覚えていない。
2階には第九茶房があった。何度か入ったことがある。
 
ロータリーの東側に三鷹楽器があり、その下にJinJInという喫茶店(レストラン)が
あったと思う。よくそこで待ち合わせをした。いつもナポリタンを食べた。
どう考えても三鷹駅前の記憶イメージというのはこんな感じだな。
 
 
床屋と書いたところに床屋があったと思う。
とても安かったと思う。小学生のころお金を握ってここまで散髪に行った記憶がある。
第九からちょっと歩いたところにも本屋があった。ちょっと古いお店だったけれど、
岩波文庫の「カレワラ」が全冊そろっていて、いつか買おうと思っているうちに
買わずじまいだったので、覚えている。
模型店はタバコ屋の2階だったかな?確か有名人の実家だった。
 
この地図の隙間にどんなお店があったのか?・・・
記憶の底を探るのも面白いかもしれない。
 

10/27/2013

卒業

考えてみると小中高大と卒業した時は全部三鷹に住んでいた時だった。
小学校の卒業式では「仰げば尊し」は歌わなかった。
高校も歌わなかったと思う。
でも中学の卒業式では歌ったように思う。
三鷹一中の体育館でだった。
三鷹一中の体育館は第一パンの工場のあった道路側にあった。
確かNHKののど自慢もそこでやった。
私達の学年は500人近くいたと思う。J組まであったから。
「仰げば尊し」ときくとその体育館を思い出すので、その時は歌ったのだと思う。

「仰げば尊し」というタイトルもその時歌った歌の内容もどうでもよいのだけど、
スーザン・オズボーンがこのメロディー(元々アメリカの歌)に英語歌詞をつけて
歌っている。
その歌詞がすばらしい。
スーザン・オズボーンという人は他にも日本の歌に英語詩をつけて歌っているが、
日本という狭い国を歌うことはなく、地球の歌にして歌っている。

この歌は泣けるほど美しいと思う。

 
 
Suspended on the edge of time
Remembering who we are
Our blue green planet spins and turns
Around a burning star
Across the silent galaxies
The universe unfolds
This great ship sails the seas of space
Toward the vast unknown

Companion travelers all are we
Whether stranger foe or friend
Evolving through these births and deaths
A spiral without end
Sharing joy and sorrow
Our laughter and our fears
We're learning in this school of life
Together through the years

The universe within our hearts
Embraces all that live
True rest we find and peace of mind
Are all we have to give
Our place is here our time is now
Sunrise to sunset
The beauty of these days we share
I never will forget
 

10/26/2013

三鷹の記憶 (9) 工藤君のこと

工藤君のことを書こう。
誰か工藤君のことを思い出すだろうか?

アルバムを見ていて思い出した。
私は6年の時は7小だったけれど、中学は六小の友達とまた一緒になった。
中学1年の遠足の写真に写っている。

工藤君は転校生だったのだろうか?どうもその前の記憶が無い。
髪はいつもボサボサで強い訛りがあった。
あの訛りはどこだろう?あまり聴いたことがない訛りだ。

工藤君は明るくいつも楽しそうにしていた。
そうだ、いつも何か歌を口ずさんでいた。
何の歌だったろう・・・

工藤君は新聞配達をしていた。
ある朝、自転車で新聞配達中にトラックとコンクリート壁にはさまれて死んだ。

彼はたったの14年しか生きなかった。
私は遠くまで来すぎた。

10/25/2013

三鷹の記憶 (8) 夏が来れば・・・

記憶を呼び覚ますものは「匂い」だとどこかで書いたけれど、もうひとつ「音楽」があった。
ある歌を聴くとその歌を聴いたころの気分に戻ることがある。
子供時代では大阪から三鷹に戻った頃、小学校の6年の頃が一番思い出深い時代
だと思う。その頃はやっていた歌で「レモンのキッス」原題は"Like I do"かな?
この英語版の方を聞くと昨日書いた初恋の頃の気持ちを思い出す。自転車でその子
の家の近くを走りまわったりしていた。

同じ頃音楽の授業で習っていたうたもそうだ。
「おぼろ月夜」、こっちの方が強烈かもしれない。
いろいろな感情を思い出す。
学校へ行くまでの畑の匂い、校舎、図書室の匂い。

夏の林間学校の時に歌った「夏の思い出」。
これもかなり強烈に思い出す。
尾瀬ではなく箱根だった。
林間学校で泊まった宿の長い洗面台で歯を磨いた時の水と歯磨きの匂い、
隣の小学校の校庭でやった朝のラジオ体操。
その彼女はぴったりのスラックスをはいていてうまく運動できないようだった。
それを先生に注意されていたのを覚えている。

記憶に結びついている歌はなるべく歌わないようにしている。
なるべく聴かないようにしている。
そうした方が記憶が薄れないから。


10/24/2013

三鷹の記憶 (7)初恋

小学校6年の時一時的に離れていた三鷹に戻ってきた。
戻ってきたのは以前住んでいた下連雀ではなく上連雀だった。
だから小学校6年の新学期の転校生だった。
先生は女性の若い先生で(たぶん若かった、めがねをかけて当時は年配に見えたけれど、)
明るい活発な先生だった。
私のクラスは40人くらいだったろうか、私以外はみな下の学年から来た子たちだった。
私はクラスでも背が高く、転校生ということもあってみんなが良くしてくれた。

最初に親友になった男は頭が良く小学生だったけれどギターが弾けた。スポーツも得意
で彼はクラスの一番の人気者だった。
学校の帰りも彼と二人で寄り道をしたりして、とても仲が良かった。

いつだったかクラスの体育の時間にドッジボールをしたことがあった。
当時は女子も男子も一緒の授業だった。
2つのチームに分かれてドッジボールをした。
前から気にはなっていたのだけど、相手チームに一人の女の子がいた。みんなよりちょっと
背が高く、やはりクラスの優等生だった。
その彼女のところにボールが行って、彼女はそれを私に投げ返してきた。
私はそれを受けてまた彼女に投げ返した。彼女は他の子に返せばいいのに、また私に
投げ返してきた。その時彼女の顔が赤くなっているのがわかった。
私はもう一度彼女に投げ返した。彼女はそれを受け損ねてしまって笑いながら外に出た。
私は何か悪いことをしたような気がした。けれど他の子達は私は、思いもよらなかったけれど、
私とその女の子をはやしたてはじめた。
私はちょっと恥ずかしかったけれど、その時何かおかしな感情が生まれたのを覚えている。

その時から、授業中に彼女と目が合うとお互いに笑い返したりしていた。
しかし、私の親友だった男の子と話をしているときに彼も彼女のことが好きだったことを知った。
私が来る前の学年からそうだったらしい。それで彼女も彼のことを好きだったらしい。
その話をしてからもずっと彼とは親友だった。二人とも彼女のことが好きだった。
それは確か3学期まではそんなことが続いたと思う。

その後、私は以前からちょっと精神的におかしくなることがあって、全ての人を自分から
排除しようとし始めていた。その感情は今はもうわからないが、友達すべてが気に入らなかった。
友達だけでなく親以外の誰も気に入らなくなった。
そのまま友達とも気まずいまま小学校を卒業してしまった。

時々夢であの初恋の時の感情が現れることがある。
夢から覚めてもその日はその感じを思い出す。
あれは不安と紙一重の感情のように感じる。

10/23/2013

三鷹の記憶 (6)バス

小学校低学年の頃(昭和35年頃)、家に一番近いバス停は「品川上水」だった。
そこの前の道は2車線で今よりも狭かったはずだけれど交通量は多かった。
兄が道を渡ろうとしてバスのすぐ後ろを飛び出し、車にはねられそうになったことがあった。
その時父はひどく怒った。
いまだから父の気持ちがわかるが、当時はあまりに怒っている父が怖かった。
父は「こんな子供は警察で罰してもらう!」と言って、交番に行くと言い残して
兄と行ってしまった。
私は家ですごく不安な思いでまっていた記憶がある。
しばらくして兄はニコニコしながら父と帰ってきた。
たぶんどこかで時間をつぶして帰ってきただけなのだろう。
今でも品川上水(今はもうないのかな?)バス停のところを通るとそれを思い出す。

記憶の底では三輪のバスが走っていた記憶がある。
運転手は足を広げて座ってオート三輪のハンドルで運転していた。
出入り口は真ん中あたりにあった。当然女性の車掌さんがいた。
品川上水のところを走っていたから三鷹---吉祥寺路線だったのだろう。

東京駅の前から三鷹か吉祥寺までバスに乗ったことがある。たぶん東京駅だったと思う。
そのバスはトレーラーバスだった。今の長距離トラックのように運転手側と客車が別れて
いた。運転手側の脇には煙突があって黒い煙を吐いて走っていた。
全体としてすごく長かったように思う。
なんの時に乗ったのか覚えていないが、すごく長い時間乗っていたように思う。

吉祥寺のサンロードのところもバスが走っていた。
つい先日吉祥寺に行くことがあった。あらためてサンロードを歩いてみると、
「いや、ここはバスはすれ違えないだろう」と思った。バスが一台走るのがやっとだ。
一方通行だったのだろうか。

品川上水のところを走っているバスは小田急バスだ。
赤白のツートーンで犬のマークがある。
先日久しぶりに小田急バスのマークを見てすごく懐かしかった。



10/20/2013

三鷹の記憶 (5)

 
子供の頃の記憶は思い出せないくらいたくさんあると思っていたが、いざ思い出そうとすると
あまり思い出せない。断片的に思い出したものを書いておこう。

 

[1]
地図の1番のところに広い原っぱがあった。畑だったのかもしれないが、そこで友達と
遊んだ記憶がある。草原があって、「そこにウズラがいるから取りに行こう」と友達が
言うので行った覚えがある。しかし1961年頃だからさすがに野生のウズラがいるわけがない。

[2]
ここには立野病院という病院があった。当時としては大きな病院だった。確か2階建てだった。
その一部が小さな公園になっていて(あるいは公園が隣接していて)子供達が遊んでいた。
夕方になると病院の看護婦さんが病院のテレビを外に向けてくれて、子供達がおおぜい
その公園のところから見ることができた。「スーパーマン」や「ノンちゃん雲に乗る」、
「少年ジェット」などはそこで見たように思う。立野先生という先生はとてもいい先生だったのだろう。

[3]
ここに金物屋があった。釘やネジやヤスリなどを買いに行った覚えがある。またその近くに
テレビを作っている工場があった。今思うと町工場という感じなのだろうが、当時は立派な
工場だと思っていた。「みなみテレビ」とか言ったかな?
この通りのお店には友達の家が多かった。肉屋さんとか八百屋さんとかみな小学校の
同級生だった。

[4]
ここに貸し本屋があった。マンガや何か本を借りた。立ち読みもした。
貸本屋というとここを思い出す。

[5]
ここに模型屋があった。「ミヤコ模型店」と言ったと思う。プラモデルをたくさん買った。
またモーターやギヤーやプーリーも品揃え良く置いていた。そういおう部材もよく買った。
夫婦でお店をやられていたようで、お二人の感じは今でもよく覚えている。
模型屋は駅前の[9]のところにもあった。角のお店の2階だったように思う。

[6][7]
八幡神社と神明神社。お祭りの時はよく行った。お祭りでなくても友達とよく行った。

[8][12]
井の頭公園の近くは前にも書いたけれど、よく自転車で遊びに行った。
公園の多摩川上水ちかくにちょっと山になったところがあって、自転車で駆け下りて
遊んだ。あの小山はまだあるのだろうか?

[11]
ここに歯医者があった。日本無線の斜め向かいだった。たぶん生まれて初めて行った
歯医者がここだった。ベルトがプーリーの間を回る音が今でも覚えている。
当時の歯医者はめちゃくちゃ痛かった覚えがある。
(追記:風祭歯科と言ったように思う)

[10]
日赤病院から坂を下ったところに池がなかったろうか?プランクトンをとりに行った覚えが
ある。

[13]
ここに映画館があった。よく小学校の映画鑑賞で行った。「24の瞳」とか「路傍の石」とか記憶に
ある。もう1件[9]のあたりにも映画館があった。ノザキ楽器三鷹店の脇だったのではないだろうか。
兄と「日本海海戦」を見に行った覚えがある。その時に予告編として「液体人間」という
映画を紹介していたけれど、それが怖くて「日本海海戦」はほとんど覚えていない。

[14]
三鷹電車庫。陸橋があってそこから下を走る電車を見に行った。
このあたりは友達の家も多かったのでよく行った。
ところで三鷹駅の西側に踏み切りがあった。武蔵野市と三鷹市をつなぐ踏切だった。
あの踏み切りも開かずの踏み切りだった。しかも三鷹駅からのほとんどの路線バスが
その前を通らなかっただろうか?あの当時いったいどうやってバスは駅の方に行った
のだろう?とても大変だったのではないだろうか。

10/15/2013

思い出したこと (札幌を去る時)

札幌から東京に帰ろうと思ったのは札幌に住み始めて5年目だったと思う。

だから1979年頃だ。
工場長にまず話したと思う。特に反対とかはされなかった。とても親身になって話を
きいてくれたと思う。

帰ろうと思っても仕事も変えなければいけないし、住むところも決めていなかった。
実家に帰るのも何か気が進まなかった。それでまず仕事を探そうと思った。
最初は雑誌・トランジスタ技術の募集欄を見て探していたが、どうもいいところが無かった。
しかもトラ技は1ヶ月ごとにしか来ないのでらちがあかない。
それで新聞屋(道新をとっていた)に頼んで東京の朝日新聞に変えてもらった。
新聞は1日遅れだったけれど、ちゃんと届いた。

なにか良さそうな募集を見つけたら電話で問い合わせした。
しかし、「今札幌に住んでます」と言うとほとんどのところが「東京に移ったらまた
電話してみて」というところばかりだった。

それでも、「東京に来た時に面接でOKです」という会社が2,3社あった。
それで夏に東京に行った時に面接を受けることにした。
夏に東京に帰ったときは兄が空港まで来てくれて、兄のところに泊まることにした。
空港から千葉の方に向かう時に周りの工場地帯や倉庫群や林立するマンションを
みていたら「ほんとにこっちで暮らせるのか?」とすごく心細くなったのを覚えている。

面接は出版社と電機関係の会社とテレビゲームなどを作っている会社だった。
テレビゲームの基盤を作っていた会社は、当時増えてきていたマイコン応用機器も
作っていた。それでそこが面白そうだったので、結局その会社にはいることになった。

札幌の会社を去る時は、社長や工場長がほんとによくしてくれて、
失業手当がもらえるようにしてくれた。また退職金も年数分用意してくれた。
そのお金は本当にその後の助けになった。


私はその時はソフトも組めなかったし、ハードも素人仕事しかできなかったので、
最初の1年は営業の仕事だった。それは結構面白い仕事だった。
電話で問い合わせしてくる工場や学校、研究所の人に自社の製品を説明するの
だが、技術屋が営業用の資料を作ってくれないので、結局自分で作ってやっていた。
1台が安いもので50万円、高いもので500万円くらいの製品を売っていたが、
当時は同じようなものを他では売っていなかったので、次々売れた。
2年目の私一人の売り上げは1億円を超えていた。

2年目くらいからは自分がアナログ回路が得意だったので、回路の設計の方もやった。
その頃の設計の仕事は本当に面白かった。
回路をチェックするためのソフトも自分で作るようになった。

あの頃が一番日本の景気が良かった頃だったのだな、と今思う。

10/14/2013

三鷹の記憶 (4)自転車

三鷹の記憶で書いているのは小学校4年の頃の話。だから1961年頃のことだ。
三鷹市内はほとんど自転車で走っていた。走っていない小道は無いかもしれない。
走っていない道があると探して走っていたから。
 
是政
南へ一番遠くまで走ったのは是政だろう。年上の友達と一緒に走った。途中で怖くなった
のを覚えている。他の子達もわざわざ是政までザリガニ取りに行ったりしていたようだ。
 
調布飛行場
調布飛行場はよく行った。格納庫の裏から入れた。
セスナが主だったように思うけれど、複葉機も飛んでいた。黄色の機体でちょっとずんぐり
した感じだったように思う。
 
東京天文台
飛行場に行った時は天文台も眺めた。崖の下からドームが見えたように思う。
その風景を覚えている。ちょっと未来的な感じがした。
ずっと後になって仕事で中に入ったことがあった。これがあの時眺めたドームか、と思った。
 
 

 
基督教大学
基督教大学は好きだった。キャンパスはどこかテレビで見た外国のような風景だった。
きれいに刈られた芝生が広がっていた。
正門から建物のあるところまでまっすぐな道だった。つきあたりを右へ行くと大学の校舎があった。
左に行くと天文台の続きの崖まで行くことができた。その崖は多摩丘陵の淵だ。
崖のところには小さな水の流れがあって、それが崖のところで滝になっていた。
そこに沢蟹がいて、子供達はそれをとったり、水遊びをしたりしていた。
崖は岩ではなく赤土だったように思う。
 
崖の手前に防空壕があった。子供達は懐中電灯やろうそくを持ってそこに入って遊んでいた。
どのくらいの距離があっただろうか。数十メートルはあったように思う。入り口とは別の所に
出口があった。しばらくしてそこは閉鎖されてしまったけれど、2回は行ったように思う。
その頃は懐中電灯も無かったので、空き缶の壁に釘を刺して、そこに小さなろうそくを
立てて、火をつけると懐中電灯のように使えた。缶の内壁で光が反射してけっこう明るかった。
 
前・神代植物園
神代植物園はまだできていなかった。深大寺は毎年ダルマ市が立って、子供達でよく行った。
ダルマは買ったことが無かったけれど、おもちゃやゲームをやっている屋台がたくさん出て
それ目当てで行った。
植物園ができる辺りは草原だった。今バラ園のあるところは当時も少しくぼ地になっていて、
きれいな草原だった。その草原を自転車で駆け下りて遊んだ。
 
新川
新川はほとんどがたんぼだった。家からも近かったのでバッタやザリガニを取りによく行った。
川の脇に沼があってそこにはフナもいた。
沼の淵には木が茂っていてその木の枝に白い泡のようなものがたくさんあった。
子供達はあれは蛇の卵だよ、と言っていたが、よく考えたらそんなことはないとわかった。
後で知ったのだが、あれはモリアオガエルの卵だった。木からポタポタと沼に落ちて
おたまじゃくしになるようだ。
イナゴもトンボも(オニヤンマもギンヤンマも)たくさんいた。ヤマカガシもアオダイショウも
いた。森の方には山猫がいるから行くな、と子供達では行っていたけれど、
そんなものがいるわけもなかった。
 
そのほか
小金井公園にも何度か行った。井の頭公園から三鷹台、西荻窪まで走った。
鉄塔は追わなかったけれど、どこまでも走った。
 
 
 

10/13/2013

三鷹の記憶 (3)下連雀の南側

 
六小のところに書いた小川だけれど、地図の痕跡をたどると六小のグランドの下(たぶん暗渠)を流れて三和グランドの方に流れていたようだ。六小の上をたどると南浦のところまで斜めに痕跡がある。その先をたどると・・・どうも桜通りになっているようだ。
昔は桜通りが品川用水(上水)だったのだろうか。住んでいた時には思いもよらなかったが、
たぶん勘ではそうだろう。
記憶の一番古いところではこの川はとてもきれいな川だった。魚が泳いでいたし、川縁には水草が
あった。
 
 
三和グランドは三和銀行の施設だったのだろう。

中はほぼ芝生で覆われていて、野球グランドがあった。大きなスコアーパネルもあって
立派なグランドだった。
その脇に遊具がいくつかあった。
普通のブランコと4人乗りの向かい合って座るタイプのブランコだ。でもそのブランコには
まともに乗ったことがない。たいていは座席の後ろに立って乗って最大ふり幅までこいで
いた。最大になるとガチャンと大きな音をたててブランコが上にくっついてしまう。
それをまた戻して同じ事を繰り返し遊んでいた。
思い出した野球グランド側と遊具のある側の間には橋があった。橋の下は小川だった。
水が流れていた記憶が無いが、川だった。あれが品川用水だったのだろう。

三和グランドの西側には今病院があるが、これは後からできたような気がする。
その場所には浅野セメントと書いたセメント工場があったと思う。
その西側は広い草むらだった。セイタカアワダチソウが生い茂ったりしていた。
子供の我々は草むらの中の方の草を全部倒して、外から見えない秘密基地を
作ったりしていた。

その先がどうなっていいたのか記憶が無いのだが、おそらく畑だったのではないだろうか。
あるいは、ずっと市役所前の通りまで草原だったような気もする。

一中のひがし側は畑だった。南の方に向かって少し丘になっていたようにも思う。
一中の南東のあたりで小学校の写生大会があって、私は畑の中に1本だけ立って
いた柿木を描いた。それが何かの賞をもらったのでよく覚えている。

大成高校の前を東西に走る道路だが、我々子供達は「広い道」と呼んでいた。
砂利道だった。その道を兵士が運転した米軍のジープがよく走っていたように
思う。どこへ行っていたのかわからないが記憶にある。

六小の道路を挟んで南側には三菱?だったかの研究所があって、当時の皇太子、
今の天皇が訪問したことがあったと思う。
六小の遠足の時はその六小南側の道路に観光バスが並んで停まった。

六小だが、今プールがあるところにも校舎がなかったろうか?
私の小学校4年はそこで勉強したと思う。
北側の敷地内には富士見学園があった。

校庭では映画上映会をやった。
柱を2本立ててそこに白い幕を張って映画を上映した。
何度かあったと思うが、覚えているのは「我は海の子」という映画だった。
映画の中で亡くなったお父さんの亡霊が出るシーンがあって怖かった。

市役所の東側に東大の寮が無かったろうか?
何か記憶にある。
道路(人見街道)からそこまでは草むらだった。

10/12/2013

三鷹の記憶 (2)下連雀

小f学校の低学年の時は、第六小学校に通っていた。
六小の校門の東側はすぐに畑だった。その北側は空き地になっていて車が何台か停まっていた。
畑は校門の前からずっと次の道まで畑だった。

その畑はいくつかに別れていたけれど、麦畑と葱畑とキャベツなどが植えられていた。
麦畑はその中でよく隠れんぼをした。麦の中に穂が真っ黒になったものがあった。
麦の穂は素手で触って指を切ったりした。

六小の北側は篠原病院だったが、その向こうはキャベツ畑だった。
モンシロチョウがたくさん飛んでいてた。
校門の右側には文房具屋があった。杉田さん、と言ったが今もあるようだ。
杉田さんは文具よりも駄菓子やおもちゃを置いていた。
ソースイカ、やイカせんべい、ガラス管に入った色つきの寒天、そのほかほとんどの
駄菓子があった。
くじ引きもあった。

六小から見て二つ目の空地は子供が野球をよくやっていた。
また柱を立てて白い幕を張り、映画を上映したことが何度かあったと思う。
覚えている映画のひとつは「しいのみ学園」。それから「つづり方教室」だったか
そんな名前の映画を覚えている。いずれもちょっと悲しい映画だったように思う。

このあたりの畑は冬は何も植わっていなかったので、子供の遊び場になった。
凧揚げもこの畑で上げた。

六小の南には林があった。
林は主に杉の木だったように思う。でも広葉樹もその間に生えていた。
カブトムシやクワガタがいた。
蛇(ヤマカガシ)もよくみた。
林は、その頃子供達の間で「広い道」と呼んでいた道の両側にあった。

南側の林の脇には小川が流れていた。
たぶん品川用水(上水)だと思う。
始めは、その小川はとてもきれいな水でフナやさわがにが棲んでいた。
その側は昭和35年頃からだろうか、下水のようになってしまい、赤や緑色の水が
流れるようになった。生き物はほとんど全滅して糸ミミズのようなものしかいなくなって
しまった。

六小の道路を挟んで西側に工場があった。その工場には「山水」と書いてあった。
当時の子供達はその読み方を知らなかった。トランスを作っていた。

「注意一秒・怪我一生」という交通標語は確か当時の六小の子供が考えた
ものだったときいたことがある。

三鷹の記憶 (1)吉祥寺の近く

忘れないうちに書いておこう。

噴水のある喫茶店
サンロードをバスが交互通行していた頃、サンロードから1本東寄りの路地に
噴水のある喫茶店があったと思う。
私の記憶で最も古い記憶のひとつだ。
父に連れられて4歳か5歳の頃に行った。
そのお店で何か飲み物を飲んだが、テーブルの向かい側に植物があって、
その間だを小さな噴水が幾つもあった。
その噴水がとても印象的だったのだと思う。
ずっと忘れたことがない。

吉祥寺駅の踏み切り
吉祥寺駅の三鷹側に踏切があった。
開かずの踏み切りだった。
井の頭公園の方から吉祥寺に向かうバスはどうしていたのだろう?と今にして思う。
あの焼き鳥屋の前の道も今より細かったと思う。
踏み切りを渡ろうとする車と右折して吉祥寺駅あるいは水道道路の方へ行く車は
どうやって右折したのだろう? 全く記憶に無い。
踏み切りを渡ってしばらく行くと左手に「名店会館」というビルがあった。
吉祥寺では最も早くできたデパート形式のビルではないだろうか。
中に古銭や切手を売っている店があってよく遊びに行った」。

野崎楽器店
駅前のサンロードから西にちょっと入ったところに野崎楽器店があった。
学生の時にずっとバイトをしていた。
1階がレコード屋になっていて、2階が楽器屋になっていた。
レコードもギターも良く売れていた。
いつだったか天地真理がキャンペーンで来たことがあった。
またあるときレコードメーカーの良く来る人が「すごい歌手が出たよ」と言いながら来た
ことがあった。その人のメーカーではないのに、いかにすごいかを店長に話していた。
その歌手は尾崎紀世彦だった。

蛇屋
その踏み切りの手前に蛇屋があって、ガラスショーウィンドウの中に蛇が
とぐろを巻いていた。私は平気だったが、その前で騒いでいる女の人がよくいた。

井の頭公園の池
今もあるが、ボート乗り場があった。子供達数人でよくボートに乗った。
乗ってボート同士をぶつけて遊んだ。
いつだったかそのうちの一人がぶつかったボートに指を挟まれて大怪我をした。
事務所で怪我の手当てをしてもらったが、なぜか怒られることはなかったように思う。
誰も落ちた子はいなかったが、落ちると泥に足をとられて上がってこれなくなる
といううわさがあった。

蛇と言えば、その池の近くに宇賀神像とかいうのがあって、体中を蛇に巻きつかれた
人の像があった。何の意味かわからなかったがちょっと不気味だった。
たぶん今もあるのだろう。

多摩川上水
公園のはずれに多摩川上水が流れていた。
いつも水量が多く、水は白く泡立つように渦を巻いて流れていて、万助橋から見下ろすと
吸い込まれそうで怖かった。
川はあまりの流れの速さで壷のような形状になっていて、流されたら絶対に上がって
これないといううわさがあった。
しかしそうなっていなくても落ちたら一瞬で見えなくなるくらいの流れだった。

山本有三文庫
多摩川上水の脇に山本有三文庫があった。
この建物はテレビのドラマに出てきそうな洋館で、建物自体も背の高い木に囲まれて
不思議な雰囲気を持っていた。
その建物は図書館になっていて無料で登録すると中で本を読むことができた。
その図書館には良く通った。
部屋は独特の匂いがあった。あれは単に本の匂いではないと思う。
今でもちょっと思い出すことができる香りだ。

有三文庫のすぐ近くで撮影された映画のシーンがあった。
小栗康平の「伽倻子のために」という映画だ。
水道局の人が夜中に鉄の聴診器にようなもので水道漏れの音を聞きながら
歩くシーンだ。映画をみた時にすぐにその場所がわかった、と同時に
あのあたりの雰囲気に包まれた。

平沼プール
たぶん2,3回行ったと思う。前にも書いたけれど私は泳げないのでプールには
あまり行かなかった。行ってももぐって遊んでいるくらいだったから。
私が小学校4年生の時だったろうか、年上の友達だった男の子がプールで溺れて
亡くなってしまった。お葬式の時のお坊さんの読経と祭壇で笑っているその子の
写真を今でも覚えている。
その後転校した先でついたあだ名がその亡くなった子と同じだった。
だからいつもその子のことを思いだしていた。

八丁地下道
平沼プールのところの中央線をくぐる地下道をこう呼ばなかっただろうか?
その地下道は坂になっているので自転車で思い切り走るとスピードが出た。
自転車にメーターを付けて時に走ったら35キロくらい出た。
たぶん今は車の交通量が多いのでそんなことはできないだろう。

水道道路
さっきの踏み切りの西側、水道道路の延長部分はもともとは住宅地の間の
路地だったと思う。今は三鷹の方までずっと延びているけれど、
踏み切りから三鷹の方まで砂利道だったのを覚えている。
自転車で走るとすごく走りにくかった。だからあまりその道は通らなかった。
砂利道が直行する道路と交わるところには橋の欄干が残っていたように思う。
ということはあの道は元は川だったのだろうか?
思い出せない。

日産厚生園
ジブリの吉祥寺寄りの公園は昔は日産厚生園と言わなかったろうか?
バスに乗ると必ず「次は日産厚生園前~」と言っていた。
あの競技場で陸上体育大会があった。中学の時だ。
私はハイジャンプ(走り高跳び)で出た。正面とびだった。
斜めから飛ぶのも正面とびと呼んだが、私は正面から飛ぶ正面とびだった。
たぶん順位にははいらなかった。順位に入ったのはベリーロールの人だったと思う。

10/05/2013

That lucky old sun

ちょっと前にDock of the bayのことを書いたけれど、
この歌はまだ働いている人の歌だ。
というよりまだ働かなくてはいけない人の歌だ。
 
私もまだDock of the bayを歌える状態ではないけれど、
あのラッキーな太陽の様に何もせず
一日中空をめぐっていたい、と思う時はある。

 

10/02/2013

秋祭り 三鷹・上連雀

三鷹の井口の方に「神明神社」という神社がある。小学校の6年の時からその近くに住んでいた。
秋になるとその神社でお祭りがある。その神社からそれほど遠くないところにも八幡様があって
そこもお祭りを行う。八幡様の方は小学校4年まですんでいた地区だったので、そっちのお祭りにはその頃の友達が来ていた。
 
引越してからは神明神社が近かったので神明様の方へ遊びに行った。
もっとも新しい友達はみな神明神社の方に遊びに来ていたから、
どうしてもそっちへ行くことになる。
 
友達をさそって、あるいはさそわれて一緒に行くのだが、目当ては当然女の子だ。
小学校6年くらいだと皆着物姿で来ている。
自分の目当ての女の子を探しに行くようなものだった。
見つけたときのドキドキ感は忘れられない。
でも女の子はなぜか3,4人のグループで来ていて目が合っても挨拶するでもなく、
そのままどこかに行ってしまう。
当時の小学生はそんな感じだった。

 
 
 
目当ての女の子を見つけたのはたぶん1度だけだ。
中学生になってからも自転車で様子を見に行ったけれど、会うことはなかった。
 今でもどこかで秋祭りの神社を見ると、その頃のことを思い出す。



思い出した。
神社の隣に自転車屋があってそこは同級の友達の家だった。その後どうしているだろう。
自転車屋をついでいるのだろうか。Googleで見ると向こうにHONDAの看板がある。
たぶんあれが彼の家だろう。

 

神社の反対側に材木屋があった。Googleでみると今でもある。
中学の2年の時にこの材木やで幅30センチ厚さ1.5センチくらいの板を買って家まで運んだ。
この長い板を手で持って運んだ。今考えるとよく運んだなと思う。
家の庭に押し込んでのこぎりで切ってスピーカーボックスを作った。
1個しかできなかったけれど当時はモノラルで聴いていたのでそれでよかった。
そのスピーカーボックスは重くて丈夫で後で処分に困った。


材木屋のすぐそばに私が通っていた小学校がある。三鷹第七小学校だ。
小学校の脇に文房具屋がった。「いづみ屋」という名前だ。今でも同じ場所にある。
ここには文房具の他にプラモデルも売られていて、学校の帰りによくたむろしていた。
当時はおばさんが店員をされていた。

七小は小学校6年の1年間しかいなかった。
1年間面白かったけれど、後半はまた恐怖症にやられていて、自分でもよくわからない感じだった。
前半は友達もたくさんいた。後半は・・・あれは反抗期というのもあったのかな?
友達にはよく思われていなかったようだ。
卒業してからすぐにクラス会があった。
そのクラス会はとても楽しかった。
でもその後すぐ親友だった人にデパートで会ったけれど、私を避けるようにしていた。
だいぶ後になって、その理由がわかったけれど、完全に誤解されていたようだ。
もうそんなことも含め、私を覚えている人などいないと思う。




10/01/2013

苦い勝利

小学校あるいは中学校の放課後、家に帰るとテレビでは映画劇場をやっていた。
それがなんという番組かは忘れたけれど、洋画を放送していた。
ストーリーはあまり覚えていないが、映画のタイトルだけは覚えている。

ウィーン少年合唱団に入団する少年の話を描いていた「野ばら」、
トラップファミリーを映画にした「菩提樹」と「トラップファミリーインアメリカ」、
西部劇の「大砂塵」など、それほど有名ではないけれど良い映画をたくさんやっていた。

印象に残っている映画で「鏡のオルフェ」あるいは「ガラスのオルフェ」という映画があった。
なぜわざわざ「鏡」や「ガラス」なのかわからない。
記憶では暗い通路のような道を主人公が歩いて行くと、向こうから「ガラ~ス、ガラ~ス」
と売り声を上げてガラス売りが歩いてくる、というシーンがあった。
あの映画はコクトーの「オルフェ」とは違うのだろうか?
ちょっと調べてみたくなった。

すごくドイツ人っぽい感じの俳優のクルトユルゲンスが主役で出ていた「苦い勝利」と
いう映画を覚えている。覚えていると言っても題を覚えているだけなのだが、
今、そのあらすじを読んでみて、もう一度見たくなった。
明らかに当時は理解できていなかったと思う話だ。
クルトユルゲンスは史上最大の作戦にも出ていた。
この顔を見ると中学生の気分に戻る。


「恐怖の報酬」もその番組で見たのではなかったろうか。
当時はあまり怖かったという記憶が無い。でも今見直すととても怖いシーンがいくつもある。
リメイク版よりも元のほうがずっといい。

ジェルソミーナの「道」も良かった。
やはり子供の頃はわからなかったことがたくさん描かれている。

最近あまりきかない映画に「ミラノの奇跡」という映画もあった。
あれは不思議な映画だった。YOuTubeで断片を見ることができた。
今見ても不思議な映画だ。どこか「8 1/2」に似ている。

あの頃見た洋画は今思うと、みな宝石のようにすばらしい。

ところで今やっている午後の映画劇場だが、あまりにひどすぎる。
B級の匂いぷんぷんだ。
まあ、それはそのつもりで見れば楽しめる映画なのだが。