1/31/2014

花巻の記憶 高村光太郎記念館 鉛温泉 イギリス海岸

学生の頃に花巻に行ったことがある。
21歳かそこらだったと思う。
いや、2度行っているな。

一度目は宮沢賢治のゆかりの場所をたずねて行ってみようと思い行った。
その時歩いたところをGoogleで見てみようと思って探したけれど、
全くわからない。
まるで別の街のように感じる。
あの時は駅から少し歩いて幹線道路に出て少し南に行ったところの路地を
入ったところのレストランでスパゲティーを食べた。それがおいしかったので
2度目の時もそのお店に行った。
しかしそのお店がどこにあったのかわからない。
その幹線道路の向かい側にすごく古い造りの旅館があったはずだけれど、
そんなものはもう無かった。

1度目の時は賢治記念館や賢治のいた学校などを見たけれど、ほとんど覚えていない。
ただ「イギリス海岸」に行ったのは覚えている。
ただの川岸だったけれど、景色を覚えている。
ここが銀河鉄道で博物学者が化石を掘っていたところなのか、と思った。

それから車でその頃できたばかりの高村光太郎記念館に行った。
そこはわかるだろう、と思ってGoogleで見たけれど、どうも違う。
何が違うかと言われるとわからないのだけれど、私が行ったとこではない。
記憶では林の外れにあってそんなに大きな建物じゃなかった。

記念館に電話してみた。
男の人が出たので、「そちらの記念館はいつ頃できましたか?」と。
そうすると去年(2013年)の5月に出来たという。
それで、「1970年頃にはありませんでしたか?」ときくと、
「ありましたが、それは今は使っていなく、新しく大きな建物にしました」
と、自分の訛りを気にされながら親切に教えていただいた。

そうか、新しくなったのか。
でも昔の建物もまだ残っているようだ。
当時は記念館の駐車場に車を停めて山の方に散歩した。
あぜ道を歩いて少し高いところに行く道があった。
私たちがその道を登ったとたん鳥がたくさん飛び立った音が聞こえて、
その上にあったため池からカモがたくさん飛び立ったのが見えた。
カモの邪魔をしてしまったようだった。
しかしとても静かな池でとても印象に残っていた。
あの池はあるだろうか、とGoogleMapをみたけれど、池らしいものは無かった。

その後、花巻駅に戻りどこか温泉に泊まることにした。
花巻温泉というのがあるというので、車でそこに行くことにした。
その温泉はとても古い温泉宿だった。
あの温泉はあるだろうか? とストリートビューを見たけれど、どうももう無いようだ。
確か道沿いにあったと思うが。
鉛温泉の方だったろうか・・・そう考えるともうどちらかわからなくなってしまう。

2度目に行ったのはそれから3年くらいしてからだと思う。
東北大学で学会があって、その学会(溶融塩討論会)で自分の発表をするためだった。
東北大学は仙台だが、その後で人を送って花巻まで行った。
その時はあまり長いこといなかったと思う。
その後、小岩井牧場まで行ったはずなのだが、全く記憶に無い。
十和田湖、奥入瀬は覚えている。

国道4号線が金田一温泉を通るところで道は直角に曲がっていなかったろうか。
その景色を良く覚えている。

1/28/2014

SLの記憶

私の故郷は茨城だ。
私は母方の家で生まれた。母は時々帰郷したようで何度か一緒に帰った記憶がある。
一番古い記憶はたぶん小学校に上がっていない頃だと思う。
当時は常磐線はまだSLが走っていた。
上野駅から乗って内原で降りた。内原からはバスだった(確か)。

その一番古い記憶だが、なぜ一番古い記憶だとわかるかというと、私が明らかに
小さかったことがわかる記憶だからだ。
私は向かって右側のボックス席に前向きに座っていた。
通路を白い衣装を着た傷痍軍人が歩いてきた。
私は眠くなっていつの間にか眠ってしまったが、
その時、向かいに座っていた知らないおじさんが
「おーおう、眠くなったねぁ、ポッポチャンがお目目にとまったねえ~」
と言ったのをはっきり覚えている。
たぶん、小学生(私は大きかった)だったら”ポッポちゃん”とは言わないだろうと思うから。
それがたぶん一番古い記憶だ。

そのあと何度かSLでいなかに帰ったと思う。
他の記憶としては、
・窓を開けていたら、トンネルに入るからと母親に注意されたのを覚えている。
・お弁当とお茶を母が買って、食べたのを覚えている。窓枠のところにお茶の入った
 瀬戸物の小さな急須を並べて置いていたのを覚えている。
・汽笛の音。それと煙の匂い。あの匂いは独特だ。
 その頃家の風呂は石炭でたいていたが、その匂いとも違うような気がする。

はっきりSLに乗ったという記憶はそれだけかもしれない。
あとはディーゼルになって、それから電気機関車になった。



    

1/24/2014

ジェットコースター

小さな子供の頃、遊園地(どこだったろう?井の頭公園か?)で乗らされて泣いたことがあった。
その時のことはトラウマになって良く覚えている。
何が怖かったかって「音」だ。
あのゴーという音が怖かった。

社会人になってもあの手には近づかなかった。友達に何て言われようと、近づかなかった。
社会人になって会社が秋葉原の水道橋よりに変わってから、後楽園に遊びに行った。
一人ではなかった。夕方近くなってあれに乗ってから帰ろうと言うことになったのだけれど、
その「あれ」というのがループコースター(今はもう無い)だった。
片側から直角に落ちてそのまま垂直のループを回って向こう側に上り、
また後ろ向きでループを回って帰ってくるだけのコースターだった。

ジェットコースターの類は、その子供の頃以来乗ったことがなかった。
しかし雰囲気でどうしても止めるわけにはいかなかった。
それで列に並んで自分がシートに固定された時初めて後悔した。
出発のブザーが鳴ってあっと言う間に垂直に落下して・・・
その後は覚えていない。
終わって降りてから手や足の震えをごまかすのが大変だった。

その時のことはただ単に怖いということだけでなく、何か妙に興奮する感情があった。
というかもう一度乗りたいと思った。
それから読売ランドやシーパラやみなと未来のジェットコースターに乗りまくった。
あれにはコツがあることがわかった。
「自分で操縦してるつもりになれば」少しも怖くないということがわかった。



それで富士急ハイランドのフジヤマに息子と乗った時のことだけれど、
あれには年齢制限があることがわかった。というかその看板にはじめて気がついた。
50歳までなのだ。
その時はすでにそれを超えていたけれど、気にせず並んだ。
ばれることはないだろうと思ったから。
コースターに乗って登って行く時が一番怖い。
しかも景色がやたらといい。
登りつめてすぐには落ちない。
ちょっと余裕があって、そのあと落ちるのだが、乗車してるとほぼ垂直に思える。
落ち始めた時に少し越を浮かすと、そのままの格好で落ちてゆく。
一人単品で落ちて行く感じがして気持ちがいい。
あと何度か落ちるが、怖いのは最後の方のロールが続くところだ。
なんとも不安な感じになる。

あれにもう一度乗りたいのだが、そろそろ年齢がばれるのではないだろうか。
と思い、ディズニーシーのレイジングスピリッツには良く乗るのだが、
あまり快感は得られない。
また前にも書いたけれどメニエルが出るのでグルグルはだめだ。
やはりフジヤマだな。

1/23/2014

夢の記憶と予知

人の話で最もつまらないのが夢の話だ、とよく言われる。
でも私は夢の話が好きだ。














とても印象的な夢はいくつか覚えている。
その中でも一番よく覚えている夢のことを書こう。

私がハンググライダーを始めたのは42歳の時だった。
それよりも数年前のある日夢を見た。
私は小高い丘の上に立っていて、なだらかな背の高い草で覆われた斜面が
目の前に広がっていた。

その斜面はずっと先の方まで続いていてその先は見えないくらいだった。
草は濃い緑色で風になびいていた。
私は「よし行こう!」と言って、その斜面を走り始めた。
しばらく走ると自分が地上から2メートルくらいのところを滑空しているのがわかった。

そのままとても早いスピードで斜面を降りて行った。
自分の顔にあたる風がとてもリアルに感じられた。
私は身体を前傾させてもっとスピードを出そうとした。
「もっと!」と思った時に目が醒めた。

その夢はずっと忘れることなく覚えていた。
ハングを始めたのはその夢のせいではない。
しかし最初に練習を始めたスクールにある丘の斜面には緑色の草が生い茂り、
丘からハングを担いで駆け下りると、まるであの夢の中のシーンのようだった。
ある夏の暑い日に練習していて、草原に向かって滑空しているとき、
あの夢は正夢だったのだと確信した。

もう一度見てみたいが、その後二度と見ていない。



1/21/2014

PC-8001で3Dグラフィックス

1975年頃の話だけれど、日本で実用的なパソコンPC-8001が販売された。会社でそれを買って
会計ソフトを作って使っていたのだけれど、その頃は実用ソフトはほとんど売られていなかったので
全部自分でつくらなければいけなかった。言語はN88-BASIC(必要ならそれにマシン語を組み込んだ)だった。

その頃、ASCIIという雑誌があった。それにAPPLE-IIのプログラムで3Dグラフィックスをやろう、
という記事があった。それを見て自分もやってみようと思った。
今は3Dソフトなどフリーでも入手できるが、その頃はゼロから作らなければいけなかった。
それをどうやったかを思い出してみよう。

まずある大きさの空間を設定したと思う。と言ってもどこまで細かく計算するかでどうにもなるのでそれは便宜上のことだったけれど。その空間の中に適当な大きさのブロックを置いた。
データは確か別の場所に行列として置いたと思う。
コンピュータのディスプレイの解像度はいくつだったろう?そんなに高くなかったと思う。640になったのはずっと後のように思う。

私は最初からディスプレイへの表示は想定していなかったディスプレイと同じ画面比でXYプロッターに出力しようと思っていた。
それで仮想のディスプレイ平面を作って自分の目の位置と、その平面の位置、それとデータとして入力した「線分」の座標を設定して、目と線分(2点)の座標がディスプレイ平面のどこを横切るかを
計算した。

画面に収まる大きさのブロックや多面体のデータを作って表示させてみたらきれいに表示された。
特にXYプロッターでメッシュ表示された絵はとてもきれいだった。
そのころSF映画で見たような絵と遜色なかった。

それで「スターウォーズ」のあの溝を飛ぶシーンを作ろうと思って、大きな平面を用意してその真ん中に溝を作った。それだけでは面白くないので途中に橋を作ってそこをくぐることにした。
データは手入力で全部作った。
遠くからその平面(平原)をディスプレイさせると驚くほどきれいな絵がプロットされた。

そこまではすんなりだったが、問題はその後だった。
データ全部が画面に収まる場合は問題ないのだが、画面からはみ出す場合の処理が問題だった。 線分全体が画面からはみ出す場合は無視すれば良いので良かったのだけれど、
大体の場合線分の途中までが画面の外で線分の一部のみがディスプレイに入ることが多い。
その処理をどうすればいいのか、他の雑誌も見てみたけれど詳しく書かれていなかった。
いや、書かれていたかもしれないけれど、理解できなかったのかもしれない。

それでその部分のプログラムは考えて作った。
どうやったのか全く思い出せない。たぶん試行錯誤で作ったのだと思う。
ついでに視野はバンク、ピッチ、ズームの焦点なども変えられるようにしてプログラムを完成させた。
映画のようにバンクをかけながら溝に入り橋をくぐって出てくるまでを10画面くらい作った。
それをXYプロッターでA3の大きさに描いた絵はとても美しかった。

そのプロットとプログラムを雑誌ASCIIに送ってみた。
そしたらその絵に関心したらしく、面白いと言ってくれた。電話でASCIIの人と話しをした。
あれは誰だったのだろう? 西さんだったのだろうか?と今思う。
しかし、プログラムがBASICのみだったし、データの作り方とかが問題だったのだろうか、
掲載されるかも・・・と言っていたけれど、掲載されることはなかった。

A3にプロットした絵がみつからない。処分してしまったかも。
でもあのプログラムはカセットテープに入ってどこかにまだあるだろう。

1/16/2014

NHKみんなのうた 「パパ教えて」 Daddy what if

札幌に赴任して、働いていた会社ではいつもNHK・FM放送を流し、昼食にはNHKテレビを
つけていた。丁度お昼の時間には「みんなのうた」を放送していた。
それで当時のみんなの歌はほとんど覚えてしまったのだけれど、断片しか覚えていないのに
とても印象深く覚えている曲があった。

その歌は、
「そしたら~やさしい風さんが~ お日様に頼んでくれるだろう~・・・・」
というところのフレーズしか覚えていなかった。
最近になってNHKのウェブを見ていたら「みんなのうた」のタイトルがあったので、
それを見てわかった。「パパ教えて」だ。
岸辺シローが子供と歌っている。
それを聴きたかったけれど、NHKのサイトからは聴けないようだ。(何故だ~!)

シルバースタインが作ったと書かれていた。
そうか、あの「大きな木」や「シルビアズマザー」のシルバースタインだ。
原曲の方は聴けないだろうか?と思ってYouTubeを調べたらシルバースタインは無かった
けれど、Bobby Bareとその子供が歌っているのがあった。
これがいつまで見られるかわからないけれど、貼っておこう。

 

「パパ教えて」の元の歌詞はどうなんだろう?と思って読んでいたら、
思わず最後の歌詞で泣けてきてしまった。

まだ私の子供が小さかった時にこの歌を一緒に歌っておくんだった。
と、今思う。

Song Lyrics

(Daddy what if the sun stop shinin` what would happen then)

If the sun stopped shinin` you`d be so surprised

You`d stare at the heavens with wide open eyes

And the wind would carry your light to the skies

And the sun would start shinin` again

(Daddy what if the wind stopped blowin` what would happen then)

If the wind stopped blowin` then the land would be dry

And your boat wouldn`t sail son and your kite wouldn`t fly

And the grass would see your troubles and she`d tell the wind

And the wind would start blowin` again

(But daddy what if the grass stopped growin` what would happen then)

If the grass stopped growin` why you`d probably cry

And the ground would be watered by the tears from your eyes

And like your love for me the grass would grow so high

Yes the grass would start growin` again

(But daddy what if I stopped lovin` you what would happen then)

If you stopped lovin` me then the grass would stop growin`

The sun would stop shinin` and the wind would stop blowin`

So you see if you wanna keep this old world a goin`

You better start lovin` me again again you better start lovin` me again

You hear me Bobby you better start lovin` me again

You love me Bobby you better start lovin` me again

    

1/14/2014

「モア」 MORE and Pink Floyd and Mimsy Farmer



この映画は75、76年頃に札幌で見たような気がする。
なぜなら一人で観た記憶と、ビルの中の小さなスクリーンで夜に数人の観客で観た記憶があるから。場所は全く覚えていない。
MOREのテーマで映画が始まり始まりのロールでmusic by Pink Floydの文字がピンク色で
表示された。その時ちょっと嬉しかったのを覚えている。
初めてその映画を観た時は劇中でPink Floydが流れているなー、くらいしか音楽については
印象が無い。しかしあの女性の印象だけは強烈に残っている。

 
あの時代(1969-1975)にはあの時代独特の女性がいたように思う。
この映画が公開された頃私は学生だった。学校に入ってすぐの頃。
まだ学園闘争の残り火があちこちにあった頃だ。
学校に入ってすぐに音楽のクラブに入り、そこの人達とも親しくなった。
その中に一人、ちょっと変わった女の子がいた。浅川マキとビリーホリデイとドアーズが好きで、
フォークソングという感じではなかった。
じきにその子と一緒に歩くことが多くなり、映画を一緒に観たり、コンサートに一緒に行ったり、
その子のアパートでレコードを聴いたりした。
ある日、その子が新宿のロック喫茶を教えてくれた。


別なところに書いているかもしれないけれど、そのロック喫茶はソウルイート[Soul Eat]と言った。
強烈に大きな音で曲をかけるので有名だった。
Pink Floydを初めて聴いたのはそこが初めてだと思う。
その子が連れて行ってくれた丁度その頃Atom Heart Motherが発売され、その店でよくかかっていた。(いや、Ummagummaだったかもしれないが・・・)
その子と一緒にその店に行ったのは何回だったろう?










その子は本当は好きな人が他にいて、そのうちその彼といつも一緒にいるようになった。
私はちょっと淋しい感じがして、そのソウルイートに一人で何度か行った。
ひょっとして彼女居ないだろうか、と思って行ったがその後会うことは無かった。
音の洪水の中で自分が一人だと感じた。
映画「モア」を観たのはそれから5年くらいしてからだ。
学校も卒業して一人で札幌に住み始めた頃だった。
モアを観てからその子と映画の中のエステル(Mimsy Farmer)とが重なるようになった。
DVDを買って何度も観ているけれど、もうFink Floydの音楽は添え物としか思えない。
この映画はMimsy Farmerのための映画の様に思う。

 






映画ではこのシーンを最後に彼女はもう出てこない。
主人公(?)の男は彼女を捜すが会えないまま死んでしまう。
こんな後味の悪い映画もない。
あの死んでしまった主人公を自分だと感じるのは私だけだろうか。
 
エステルに会いたくてもう一度(more)DVDをかけてしまう。 
 
 
 
 

1/13/2014

トスカニーニ Arturo Toscanini


トスカニーニを初めて聴いたのはたぶん中学2年の頃だ。
それ以前にも何か聴いていたと思うけれど、NHK-FMで放送されていた「トスカニーニ・アワー」
だと思う。
その番組は村田武雄さんが解説されていた1時間番組だった。(1時間以上やっていた時もあったように思うけれど)
村田さんの落ち着いた声が好きだった。その声はいつでも思い出せる。なんとなくハイドンの音楽を思わせるような声だった。
村田さんは「劇的な」というのが口癖だった。毎週その番組で1回は言っていたと思う。

トスカニーニ・アワーのオープニングテーマはレスピーギの「ローマの松」の冒頭だ。
今でもあの曲を聴くとトスカニーニアワーの開始を思い出す。
トスカニーニ・アワーは一度終わって、何年後かにもう一度やったと思う。
1年後くらいだったかもしれない。
2回目の番組の開始テーマは何だったろう?同じだったかな?

ちょうど同じ頃にFEN(今のAFN)でもトスカニーニ・アワーというのをやっていた。
そっちのテーマ音楽はブラームスの交響曲1番の冒頭だった。
FENではグランド・オール・オープリーというカントリーの番組もやっていたけれど、
そのDJの人とトスカニーニ・アワーのDJの人は同じ人だったのではないだろうか?
どうも同じ声のような気がする。
FENのトスカニーニ・アワーも1時間番組だったと思う。

トスカニーニはアメリカに移ってからはNBC管弦楽団を主に指揮していた。
トスカニーニとNBCの演奏は他のどことも似ていない。
あの感じは何だろう。
「荘厳」「厳格」とかいう言葉が似合うように思う。それこそ村田さんの「劇的な」という言葉が
ぴったりかもしれない。
よく対比されるのがフルトヴェングラーとベルリンフィルだけれど、何かが決定的に違う気がする。

トスカニーニの演奏で一番好きなのは何だろう?
ベートーヴェンでは3番かな。
シベリウスの「ポヒョラの娘」という管弦楽曲があった。
トスカニーニのこの曲の演奏はすごい。それこそ劇的な盛り上がりを聞かせる。
トスカニーニ以外でああいう演奏を聴いたことがない。
「マエストロ」という言葉はトスカニーニのための言葉だと思っていた。イタリア語なのだから
ドイツ人やフランス人には似合わない。

当時は」トスカニーニの映像など見ることができなかったから、雑誌やレコードジャケットの
写真を眺めるだけだった。
それで、(上の)トスカニーニの写真を見るととても懐かしく思う。
またすごく親しみがある。
ある意味、父親の写真を見るのに近い感じがする。

1/12/2014

青の少年 "The blue boy" Thomas Gainsborough

今までで一番印象に残った絵画は何か、ときかれれば、これだ。

中学3年の頃、図書委員をやっていたので図書館の本はほとんど”見て”いた。
絵画に関する本も沢山あって、その中の1冊にこの絵があった。
確かその時は『ゲインズボロー作「青の少年」』と書かれていたはずだ。
最近は「青衣の少年」と言うらしい。しかも作者はゲインズバラという言い方になったようだ。
英語のタイトルは「青の少年」でもなく「青衣の少年」でもなく「青い少年」だ。
それに「ゲインズバラ」よりは「ゲインズボーロー」の方が元の発音に近いと思うのだが・・・
・・・思うのだが・・・のだが・・

まあ、それはそれとして、この絵を最初に見たときの不思議な感じを忘れられない。

 
この絵の少年は私がこの絵を見た時よりも300年以上前に描かれた少年なののだけれど、
この少年を知ってるような気がした。
たぶんその当時の私とこの少年は同じくらいの歳だったのではないだろうか。
当時の自分に似ているような気もした。
調べてみたらこの少年はある金持ちの金物商の息子だったらしい。(検証はされていないらしい)

中学校の図書館でこの絵を見てからずっと記憶のどこかにこの絵があった。
今改めてこの絵を見ても、やはりどこかで知ってるような気がする。





1/11/2014

旧土人保護法(a Japanese law to protect native people in Hokkaido)

この法律が廃止されたのは実に1997年だ。まだ私が札幌に居た頃はこの法律が生きていた。
これが廃止されるまでアイヌ(Ainu)の人達は法的に彼らがアイヌ(Ainu)であることを禁止されていたわけだ。

私が小学校の6年から中学生だった頃、よく一人で映画を見に行った。
大体が西部劇だ。西部劇の中ではたいていインディアン達は悪者として描かれていたから、
それを見る側も当然白人サイドの立場で見てしまうわけだけれど、ませていた私は
半分はインディアンの側から見ていた。つまりインディアンの方が格好いいと思って見ていたところがある。

アメリカン・インディアンは日本人に似てなくもない。と思っていた。
少なくとも映画で見る限り我々黄色人種(yellows)はインディアン(red)に近いと思えた。
しかし息子と二人でアメリカを旅行した時、アリゾナの外れでピザショップに入ったら
我々二人以外は全員インディアンだった。彼らは我々を直視していた。
その視線を気にもせずピザを食べていたが、改めて彼らを見返してみると、
やはり日本人とはかなり違うなと実感した。

いつから彼らをネイティブ・アメリカン(native American)と呼ぶようになったか知らないが、
エスキモ(Eskimo)がイヌイット(Inuit)になったのと同じ頃だろうか。
それじゃあ彼らインディアン達は自分達をどう呼んで欲しいのだろうか?と思って調べたら、
1995年の調査(これ以降の調査は無い)で49%のインディアンが自分達を
American Indianと呼んで欲しいと思っているらしい。そして37%がNative Americanと呼んで
欲しいと思っているらしい。大多数ではないが半数のインディアンたちは自分達を「インディアン」
と呼んで欲しいと思っている。
これはある意味不思議だが、「お前らが付けた名前だろうが!」という意味もありそうだ。
"We Will Call Ourselves Any Damn Thing We Choose"
と言っている。

ところで、この旧土人法だが、この「土人」という言葉に今まで差別的な意味を感じていた。
しかし、よく考えてみるとこれほどアイヌ(Ainu)にぴったりな呼称は無いように思う。
もちろん蔑視的意味ではない。
北海道をアイヌは「アイヌモシリ」と呼んでいた。
これはもちろん「人間の土地」という意味だが。
逆にすればモシリアイヌだ。これは「土地の人」ということにならないだろうか。
つまり土人だ。
北海道で自分達を”土人”(道人ではない)と呼べるのはアイヌの人達以外にはいない。

旧土人保護法の英語訳にはAborigineということばを使っているものがある。
これはAborijini(アボリジニ)が「原住民」という言葉だからだ。
なぜアイヌ保護法という名前にしなかったのだろう?

土人という言葉が蔑称的な趣があるのは否めないが、
彼らを”土人”と呼んでしまったのは日本人だ。
なぜか今、土人という言葉はアイヌを賞賛することばのように思える。

もっとも私はアイヌではないからそんなことを言っているわけだけれど。
私は北海道が好きだ。
北海道の自然が好きだ。
北海道の木々の中にいた頃は自分の人生の一番素晴らしい時だったと思う。
そういう意味で私はアイヌ(人間)でありたい。

1/08/2014

完全な真空(Doskonała próżnia)

これまで一番良く通った古本屋は神田の洋書屋と筑波の古本屋だろう。
筑波の古本屋は阿見の工業団地に行く途中にあった。
なんでこんなところに?と思うような田舎にあった。
そんなに大きな本屋ではなかったけれど、いつ行っても何か面白い本がおいてあった。
工業団地には10回以上通っていたからその都度何か本を買っていた。

地方に出張に行った時も古本屋を探して行っていた。
その都度何か買って帰った。
不思議なもので、買いたいと思う本はまるでその本が呼んだようにそれを見つける。
その本屋に行かなければまず出会わなかったと思う本ばかりだ。
決して本屋で探して「これにしようかな・・」ということではない。
まずその本に目が行きそれを買うことになる。

今日も出張に出た。
古本屋を見つけて入った。
なんとなく面白そうな本屋だった。
本棚の間の通路のひとつに入って、左の棚を見たらその本があった。
タイトルに「完全な真空」とあった。
先日書いたブログ内容に似ているなと思い、手にとるととんでもない本だった。
著者はスタニスワフ・レムで好きなSFをいくか知っている。
序文?を読んでみて最初は意味がわからなかった。
しかしそれが架空の著作物の書評集であることがわかった。
しかもその序文と思ったものはレムのその著書「完全な真空」の書評になっていた。
つまり架空の著作物の書評集の書評というわけだ。

中はまだはじめの方しか読み進んでいないが、とても面白い。
最初の「ロビンソン物語」は孤島に漂流した男がロビンソンクルーソーを自ら演じる
という「小説」の書評だ。
書評と言っているがそれ自体が物語りを語りながら進んで行く。
中には他の著作物のパロディーも含まれているらしいが、私はそれらを読んでいないので
どのようにおかしいのかがわからない。
しかしこの書評集の中の話が一般の書評に比べようもないくらい面白いのは確かだ。


1/06/2014

宇宙は何で出来てるのか?

よく聞く言葉で「霊の存在は科学的に証明できない・・・」とかいうのがあるけれど、
科学的に証明できないものが存在しないこともないだろう?と思う。

どこでもいいから1メートル四方の空間を設定して、その中の空気を含め気体を全部出して、
塵や埃も全部取り除いて真空にした後の空間のことだけれど、
そこには目に見える限り何も無い。
じゃあそこに何があるんだろう? と時々考えることがある。

その中にはいわゆる自然の法則というものが「なんらかの形で」あるのだろう。
つまりその空間に二つのものを置けば互いに引力で引き合うだろうし、
電波も通るだろうし、光も通る。
この一見何も無い空間はいったいどうやってそういう「法則」を存在させているのだろう?

もっと不思議なのは、生きたねずみをそこに入れればすぐに死んでしまうだろう。
それは空気が無いからなのだけれど、それだけでなぜ「死」ぬのだろう?
その空間に宝くじを置いてみても、そのくじは東京のどこかの会場で抽選された
結果の番号にしたがって当たるかどうかが決まるのだろう。
また数学の法則の全てがその空間の中では正しく当てはまるだろう。

いったい、その空間はどうやって世の中の因果律を存在させているのだろう?
そこの部分は科学ではまだ解明されていない。(たぶん)
それは「空間だ」とか「電磁場だ」とか言うのだろうけど、
じゃあ、たとえば「温度は高いところから低いところに移動する」ということだけれど、
(熱力の第二か?)この法則は一体どういう形でこの空間の中に存在してるのだろう?
低い方から高いほうに移動してもいいのに。
エントロピーに関わってくるのだろうけど、そのエントロピーの法則自体はどういう形で
存在しているのだろう?

それじゃあ純粋な数学的空間というのは存在するのだろうか?
数学的規格?以外は何も持っていない空間。
そういうものは存在し得ないのだろう、きっと。
だからこの空間の存在自体が空間に依存しているのだろうきっと。

それで、霊の存在だけれど、この1メートル四方の空間に霊は存在しない
と誰が言えるのだろう。