8/22/2014

広島・緑井 と ヒロシマ

広島で大きな災害が起きた。
テレビで緑井という地名が頻繁にきかれる。
緑井というところには一度行ったことがある。
もう25年くらい前のことだ。

母方の祖父は公務員で日本各地を点々と赴任していた。
私が知っているのは鹿児島、長崎、広島、というのを母から聞いたことがある。
祖父は廣島の県庁に勤めていた。

そして緑井にあった試験農場に行って仕事をしていたそうだ。
その日の朝、観音町の自宅を自転車で出て、もうすぐ県庁というところでほぼ真上から被爆した。
祖父はひどい状態で、それでも自転車を押して自宅まで帰ったそうだ。
家に戻って家族の無事を知り翌日亡くなったそうだ。
帰ってきた時は動けるのが不思議なくらいの状態だったそうだ。


その時母の家族は6人家族だった。
一番下の娘さんと母親は家にいたらしい。
その上の娘さんは、可部線に乗って通う学校に行っていて全く無事だった。
その上の(私の母)は現在の東洋工業のあたりにあった事務所で働いていた。
そして窓ガラスが爆風で割れ全身に浴びてしまった。
そのガラスの破片は母が亡くなるまでまだ体の中に少し残っていた。
祖母と下の娘さんと家がどうだったのか、私は母から聞いていない。
しかし爆心から2キロ無いので、倒壊したと思われる。
母はその前日には今の平和公園のあるところにあった友人の家に行っていた。
そこで泊まれば仕事場には近かったのだけど、その日は泊まらずに家に帰ったそうだ。
もし帰らなかったら私は今ここにいない。

長男はというと、その時は東京の学校に行っていたため広島にはいなかった。あとから
廣島に原爆の話を聞き数日後に廣島に戻った。
たぶんその時にかなり被爆してしまっていた。
それから千葉で家族を持ち子供二人をもうけたが、50歳の時に突然ALSを発病し
1ヶ月後に亡くなった。

母は私にヒロシマのことを言わなかった。初めて知ったのは私がもう30を過ぎてからだった。
私はそのことを知り、また母が被爆後広島には行ったことがないと言うので、
一緒に行ってみようと言った。
そしてある夏に母と二人で広島に行った。
その時はまだ広島空港は海の端の方にあった。
降下する時に飛行機は急なバンクをかけかなりの速さで降下して行った。
母はそれをすごく怖がっていた。

空港から歩いて当時の母の職場があったところを歩いた。そこから観音町の家が
あったあたりまで歩いた。
母はきょろきょろと周りを見回しながら歩いていたが、昔の場所が良くわからないようだった。
後で街で昔の地図を買ってわかったのだが、観音町のあたりの太田川は昔とは流れが
変わってしまっていた。それで家があった場所は川から少し離れた場所になってしまった
のだった。

その日は街のホテルに泊まり次の日はまず平和公園に行った。
母は何も多くを語らなかったが、平和公園の場所にあった元の街の地図のところで立ち止まり、
友達の家の名前をみつけて、「前の日にここに泊まっていたかもしれないの」と言った。
私はその人の家の名前を忘れてしまった。もう一度聞いておくのだったと思う。

それから横川駅に行った。駅のあたりを歩き、「このあたりはみんな家が倒れて・・・」
遠くを見ながら言った。母は昔の町を見ていたのだろう。私にもその景色が見えるような気がした。
それから可部線に乗って緑井に行った。記憶が定かでないが、どこか鉄の門のある公園のような
ところに行ったように思う。その門の前で「ここだったんだと思うわ」と言った。

そこから己斐(こい)のお寺に行ってみたいと母がいうので、タクシーで行くことにした。
たまたま来たタクシーに乗ったのだが、話をしているうちにその運転手も被爆者であることが
わかった。当時小学生だったそうだ。
己斐のお寺の名前も忘れてしまったが、山肌にあったように思う。
母は歩きながら「ここも、ここも怪我をした人がいっぱいだったの・・・・」と言った。
母の話では山全体が怪我人でいっぱいだったらしい。
恐らく母も川向こうから歩いてここに避難したのだろう。

待っていてくれたタクシーで駅に戻るのだが、タクシーの運転手が「どこか見ておき
たいところはないですか?」と言うので、そこから駅に帰る途中どこかに寄ったのだが、
それがどこだったか思い出せない。
記憶では比治山の話をしていたので比治山を回ったのかもしれない。

今、母に色々聞きたいことがあったとは思うが、あの時は何か聞けるような感じではなかった。
私は母が言う言葉と母の目を通して昔の広島を見る思いだった。

8/21/2014

記憶力

そろそろ記憶がヤバイかも。
クラブのこと同じこと2回書いてる。
消すのもなんだからそのままにしておこう。

記憶力が悪くなってきたのに気がついたのは確か40歳くらいの頃だ。
それまで一度に3つくらいの仕事を平行してやっていて、全部を終える
ことができた。
でもだんだん3つのうちの一つを忘れることが出てきて、一度にいろいろ
やるのはもう無理なんだなと思うようになった。

今は一つのことも怪しい。
これを何時までにやらないといけない。と思っていて忘れる。
もうすっかりわすれる。
ひどいときには時間が来ても気がつかない。

それで楽器だけれど、間奏でソロのメロディーを弾く場合に、楽譜を書くのは面倒なので覚える。
これが不思議と覚えられる。
何故だろうと考えてみた。
覚えているメロディーを楽譜に書こうとすると、記憶だけではまず無理だ。
しかし、ギターで弾くと弾ける。
これは指の流れで覚えているからだとわかった。
よく暗記するのに家に入ってどういう行動するかと合わせて覚えると覚えられる、
ということとをきく。
きっとあれと同じなんだろう。


8/19/2014

フォーク・ソング・クラブ

 
大学に入ったのは1970年だった。
私のいた理工学部は文科系のキャンパスとは離れたところにあった。
音楽関係のクラブは渋谷の方にあったので、渋谷キャンパスのクラブに入ろうと思っていた。
どこにしようかと考えているうちに数ヶ月が経ち、出遅れてしまった。
その年に作られたASFというフォークソングのクラブに入ることにした。
先にクラブに入った人達は部室を作ったりクラブ活動の準備を行っていたけれど、それには
参加できなかった。
それにキャンパスが違うので何時もいつもそこにいることができなかった。
そのため自分の中にちょっと引け目があったのは確かだ。

 
そのクラブとは2年半くらい一緒に活動した。
何をやっていたろう?・・
1.入部当初は独りでアメリカンフォーク、それもアパラチア系の古い歌をやっていた。
  それは高校の時に小平の古矢と一緒にそういう歌をやっていたからだ。
  当初はその分野の歌は他の誰も興味を持たなかった。
  半年くらいはずっとそういう歌をやっていた。
2.そのうち先輩の太田さんがキングストントリオのバンドをやろうと言ってきて、私はそれをやろう
  と思った。もう一人大田さんの友達の早稲田の柴田さんという人が一緒だった。
  1年くらいそれをやっていた。色々なコンサート、ライブに出演した。結婚式場の全く知らない
  人の結婚式で歌ったりもした。
  私はジョンのパートでギターとバンジョーを担当していた。今思うともっと上手くできたように
  思う。あの頃は何もわかっていなかった。
3.その後CS&Nのコピーバンドをやろうということになり、Mと吉野と3人でバンドを組んだ。伊賀
  がベースをやってくれた。
 
  このバンドでも色々なところに出た。
1年が過ぎて新年生が入ってくるとクラブは100人を超える人数になってきた。
そのころからどうも何をやっても面白くないという感じがしていた。
 
新年生の中に小松沢という男がいた。
日本人ばなれした顔つきは彼の父親がアメリカ人だったためだった。
彼はとても活動的で面白い男だった。
彼とは話しが合い、いつのまにか彼と行動を共にすることが多くなって行った。
クラブとは離れて音楽活動をするようになった。
私の家で自分達の演奏を録音して独自の音楽を作ることを面白いと思うようになった。
私と小松沢と吉野と望月が一緒になにかやっていることが多かった。
 
ある年の夏の合宿が富士急ハイランドの近くであった時、私と小松沢は、もうクラブは
やめて自分達で始めよう、ということにして、二人でバイクで合宿を抜け出し
帰ってしまった。そして彼のアパートでレコードを聴きながら、お互いの好きな音楽の
話をした。
 
同じ頃にやはり現状のクラブに不満のあったグループがあり、彼らは現状のクラブを
解体するということにしたらしい。 なぜそういうことができたかというと言い出したのが
そのときの部長だったからだ。
クラブは2つに分裂して新しいクラブがASFの名前を使い、もともとのグループはAFW
という名前で新しくクラブを始めたらしかった。
私はその経緯を知らない。もういずれのクラブにも興味が無かったから。 
 
私は藤沢を拠点に活動していた小松沢と一緒に行動していた。
コンサートを開いたりバンドで録音をしてれこードを作ったりしていた。
その時の鎌倉山でのレコーディングセッションはあの頃の最も輝かしい成果だと思う。
 
学校のクラブがどうなっているのか全く興味が無かったが、私達がその分裂した
グループのメンバーだと思われていたらしく、AFWの人達は私と小松沢をよく思って
いなかったようだ。
そのため旧ASFの集まりに私が行くと、どこかよそよそしい感じがしていた。
その時は私はその理由をしらなかったので、なぜだろう?といつも思っていた。
 
どうもその分裂が原因らしいとわかったのはだいぶ後だった。
ASFの集まりがあった時にその誤解を皆に説明したけれど、長い間の誤解はそんなに
簡単には解けないようだった。
 
それが私にとってのクラブ活動だった。
もうどうでもいいが、
もうどうでもいいだろう。
と言いたくなる。
 
あのクラブで楽しかったのは最初の2年間だけだ。
 

8/17/2014

メラニーという人 Melanie Safka

 
1970年を考えた時、最初に思い浮かぶのがこの人かもしれない。
もちろん会った事もないのでどんな人なのか本当のことはわからない。
でも彼女が歌うRuby Tuesdayは、彼女自身のイメージが強い。
 
 Ruby Tuesday
 
 
 少なくとも私の中では彼女がRuby Tuesdayのイメージだ。
昔ルビーテューズデイのような女性にあったことがある。
いや、実際にはルビーテューズデイなる女性を知らないので、あくまでもイメージで話しだ。
彼女には時々会った。何をするわけでもなく話をしたり映画を見たりコンサートに行ったり
したが付き合っていたわけではない。
よく考えたら彼女のことをほとんど知らない。
彼女の部屋に行ったことはあるが、すぐに別なところに引っ越してしまった。
だから何処に行ったのかわからない。
 
Long long time
 
 
 
いったいそういう人がいたのかさえ、今となってははっきりしない。
記憶なのか、幻想なのか、想像なのか、今となってはわからない。
ルビーテューズデイという女性が歌の中にしかいないのと同じように、
きっとかすかな記憶の中にしかいないのだろう。
 
 

8/09/2014

谷津町三丁目

小学校の頃、夏休みに千葉の親戚の家によく行った。1960年頃の話だ。
当時手紙を書いたことがあって、その住所を途中まで覚えている。
それが「谷津町3丁目」だ。 その後は覚えていない。
同じ作りの平屋の住宅が沢山並んで建っていた。

かなり前に車で行ったことがあったが、その場所が何処だったのか、
あまりはっきりわからなかった。
ただ防波堤だけはの残っていた。
 
 
その家に行く時は、谷津遊園駅で降りて谷津遊園地の入り口の前を通って海の方に
向かって歩いた。谷津遊園の前の道は両側にお店が沢山並んで、浮き袋や遊具、
それときれいな貝殻や海ほうずきを売っていた。
 
その家のから50メートルも行くとすぐに海になっていた。
そこに防波堤があり、ずっと遊園地の方と反対側は船橋ヘルスセンターの方に続いていた。
 
その海は遠浅になっていた。
潮が引くとすう百メートル先まで砂浜になった。潮が満ちると深さ1メートルくらいの海になったが、
ちょうどその住宅の前から50メートル先くらいから急に深くなっていた。
その深さがどのくらいあったかわからないが、数メートル以上はあったと思う。
 
今の地図と当時の地図を比べてみると、我々が遊んだ海のところだけ谷津干潟として残って
いるようだ。現在の海はその防波堤から2キロ近く遠ざかってしまった。
 
当時は遠浅になるとアサリやハマグリが沢山取れた。バケツを持って行くとすぐにバケツいっぱい
の貝がとれた。 また海は(汚れる前までは)とてもきれいで、魚が沢山泳いでいた。
石鯛の子供が群れで泳いでいるのを良くみた。
サヨリやタツノオトシゴ、いろいろな魚が泳いでいた。
 
そのきれいな海は数年して黒くなって行った。
もう岸近くでは泳げなくなり、遠浅の砂浜をずっと先まで行かないときれいな水にならなかった。
それからは海で遊ぶこともなくなってしまった。
あれが高度成長期だったのだろう。
 
海がきれいだった頃、冬になると海が凍った。
海水は凍らないと言うけれど、あの防波堤の前の海は凍って真っ白の海岸になった。
 
すぐそばにオートレース場があって、外から隠れて見に行った。
それが危険な事とは知らず、コースの外側で見ていたら、場内放送のスピーカーで注意された。
たぶんレースは中断したかもしれない。
 
またヘルスセンターで花火大会をやったので、すぐ真下で見ることができた。
あれは今までで一番打ち上げ近くで見た花火だろう。
 
 
 

8/08/2014

ピンクフロイドの夏 アフロディーテの夏

この話しは前にも何度も書いたような気がする。
今年(2014年)の8月6日はあれから43年目の夏だ。

都合のいいことに小田原で仕事だった。それが昼前に終わって、それから箱根に
向かうことにした。
小田原からバスで元箱根に行く。
途中、箱根湯元を通る。
あの日も小田急ロマンスカーで箱根湯元で降りてそこからバスで元箱根に向かったはずだ。
箱根湯元で急に外人旅行者が大勢乗ってきた。
小田原から1時間くらいで元箱根に着いた。

 
 
着いて気がついたのは、天気があの日そっくりだったことだ。
雲は低く、頭上を掠めるように飛び去っていた。
あの日は山のホテルの縁の下に野宿したのだが、こん回は元箱根から歩いて行くことにした。
 
こんなに遠かったのか、と思った。
山のホテルを過ぎて道は右にカーブする。そのカーブしたところに成蹊学園の門がある。

 
前回来た時は門は閉まっていて、中を撮影させて欲しいと頼んだが断られた。
今回は、たぶん夏休みだったからだろうか、門は開いていたので中に入って行った。
たぶん守衛さんか警備室があるだろうと思い、そこで聴くことにした。
 
門を入って建物があるところまでは登り坂の小道が続く。
確か当時は砂利道だったと思う。その前日の雨ですこしぬかるんでいた記憶意がある。
しかしその道はすっかりきれいに舗装されていた。
 
記憶では会場までそんなに歩かなかったような気がするが、今回歩いてみて門から
会場まではダイブあったということがわかった。
坂を上って行くと屋外で学生が集まって何かしていた、私には気がつかなかったようだ。
そこをさらに行くと大きな建物があった。
あとできいてわかったのだが当時はその建物は無かったそうだ。
 
建物の玄関を入ったが誰もいなかった。受付にベルがあったので何度か鳴らしたが
誰も来なかった。奥の方で学生らしい声が響いていた。
しかたがないので、外に出て庭(コンサート会場跡)を眺めていた。
するとドアの内側に誰かいるのが見えたので、急いで行って、話をした。
その人も昔ここでロックコンサートがあったことを知っていた。
(山のホテルは以前泊まった時にきいてみたが知ってる人はいなかった)
それで、撮影の許可をいただき芝生の中にも入って撮ることができた。
 
 
 
写真正面に林がある。その手前に天使のオブジェがある。
恐らく天使のオブジェのあたりにステージがあったと思う。
その左手が観客席になっていた。
 
観客席と言っても椅子は無くただの地面でその上にみな座って聴いていた。
観客席の後ろの方からステージを見るとこんな感じだった。
 

 
正目のやや右側がステージだったと思う。
 
 
 
 
しばらくビデオを回しながら、ヘッドフォンで当時の録音の音を聴いていた。
まるであの日に戻ったようだった。
しかし時は明らかにあれから40年以上経っていた。木々はこんなに大きくなかった。
あるいは観客席側には木々は無かったかもしれない。芝生ではなく草原だったかもしれない。
 
 
今のアフロディーテ会場はとてもきれいだ。
私以外誰もいない。
自分だけ遠い未来に来てしまったような気がした。
 

8/05/2014

夏だからSFのことを書こう

記憶がいつのまにか変化して勘違いしていたということがよくある。
今朝は頭上には雲ひとつ無い青空だ。
たぶんもう30度を超えているだろう。
空を見ながら、そういえば夏がタイトルのSFがあったな、と考えていた。
「あれはブラッドベリーだ・・・」
「そうだ、猫だ、猫が出てくる・・・」
それでブラッドベリーを検索して本の名前を思い出そうとした。
しかし、出てこない。

「おかしいな、記憶違いか?・・・」
それで、”SF、猫”で検索してわかった。
ハインラインだ。
そうだ、なんでブラッドベリーだと思ったんだろう?
ブラッドベリーも猫の話を書いていたからだろうか。

原題はThe Door into Summerなんだ、と今知った。
2回は読んでいるはずだけど、内容をほとんど覚えていない。
最後の猫に再会するところしか記憶にない。
たぶんあの小説はそのシーンが一番大事なものだったんだろう。

それじゃあSFのシーンで一番印象に残っているものは?と言うと
やはりブラッドベリーだ。
火星年代記の火星に移住する時の話で、一つだけ地球から持って行って
いいものを選ぶところで、家のポーチを持って行くというところだ。
なぜかその話をよく覚えている。

もうひとつ神林長平の”魂の駆動体”の中の、遠い未来に自動車の設計図(紙)
を見るシーンだ。このシーンは読んでいて涙が出た。

SFはきっと話し尽きない。
また書こう。