12/06/2015

量子論的宇宙の構造

             

SFの世界でこの宇宙が誰かのコンピュータの中で動いている架空の世界だという話があるが、
それはちょっと違うように思う。
というのは、それにしてはあまりに良く(現実的に)でき過ぎているし、バグも無いようだから。
まあ、その世界があったとして自分達はその世界のバグに気づくかどうか?という疑問は
確かにあるけれど。私はそういう構造ではないと思う。

ところで亀と象はけっこう辛いんじゃないだろうか

私が思うにはこの宇宙があるのは、こんな構造じゃないかと思う。
我々の宇宙は言わばハードウェアで、それをその外側の「もの」が動かしている。
その「もの」というのが自然の法則(物理、化学、もそもろ)で、これはBIOSにあたる
この宇宙を直接動かしている基本的な法則だ。
我々の宇宙は光速度を周波数とするクロックで動いているから、宇宙のどこでも
光速度を超えて動くことはできない。
自然の法則がなぜこの宇宙の外にあるかというと、前にも書いたけれど、世界の
どこに行っても同じ自然法則が成り立ち、因果律も同じように働くから。
どう考えてもおかしいでしょう、手元の乾電池でLEDが点くのは電流が+からマイナス
に流れる(ということになっている)から。しかし40cm離れた所とか10km離れたところ
では逆であってもおかしくない。それが同じ法則が働くのはこの世界の外側で
時空を超えて働いているからだ。(まあ、当たり前なのだが)

その上層にあるのがカーネルだが、これは、まあ、OSに例えればあるだろうという
くらいのもので、ようわからん。
その上にユーザーインターフェイスがあり神様がマウスとキーボードをカチカチやる
ためにある部分。実際に神様がやってるかどうかは不明。
まあ、こんな感じでしょう。
科学者がいくら研究してもこの青い部分しか解明できない。
その外側は神学者にでも頼むしかない。

ところで「量子もつれ」(Quantum entanglement)だけれど、たぶんプログラムの最初の方に
量子ペアーはentanglementの状態にあること。とかなんとか型宣言しているんじゃないだろうか。
だからどんなに離れていてもペアーの状態にあって、どこかで片方がtrueだとわかると
もう一方はfalseになるのは、もう決まりきったこと。その決定は時空を超えているから
瞬時というか時間ゼロで決まる。

じゃあ量子はなぜ確率でしか現せないかというと、たぶんこの宇宙を動かしているクロック
にかかわることだからではないだろうか。
例えばシンクロスコープでコンピュータの中のクロックで動いているパルスを見た時、
トリガーの方向と閾値によって「1」にも「0」にもなる。
risingエッジで見ようとすれば正のパルスが見えるし、fallingエッジで見れば負のパルスが
見える。言ってることがよくわからないけど、まあそんなようなしくみなんじゃないだろうか。

量子の挙動というのはどうもこの宇宙の中で決まっていることじゃないように思う。
言いたかったのはこれだけかな。(どこが量子論だったのだろう?)

12/05/2015

コンピュータは人類を支配するか?

たぶんアシモフがロボット3原則を考えた時にはすでに人工知能が人間以上の存在になることは
予想できていたのだと思う。
その後の映画がSFの世界でもコンピュータが人間に対抗する存在として描かれてきている。
しかしコンピュータが人間を支配する構図はだいたいがコンピュータが自分の意思を持ち
人間以上の思考能力を持つということがその基本のように思う。
コンピュータが人間の自意識と同じような思考を持つことはそんなに難しいことではない
ように思う。感情にしてもプログラミングでそれらしいものを持たせることも十分可能だと思う。
いずれ人間と同じ形状で、人間と同じ意思を持つコンピュータあるいはロボットができるのは
時間の問題だと思う。

コンピュータが反乱を起すかどうか、それはわからないが、そうした方が自分にとって良いと
判断したらそうするだろう。それはたぶん2001に描かれたように人間がプログラミングした
プログラムの一種のバグによって起きるだろうことは十分考えられる。

でもそれは従来のコンピュータの概念の範疇のことだ。
量子コンピュータ、特に量子アニーリングによる方式のコンピュータが発達した時のことを考えると
従来のコンピュータの反乱とか言っているよりも恐ろしいことが起きそうな気がする。

量子アニーリング方式の量子コンピュータは現実世界のエミュレーションをして結果を出すような機械だ。「結果を出す」というのもちょっと違うかもしれない。要するに現実世界と同じような状況においてはどういう結果になるかを見るだけだ。
ようするに計算尺だ。
計算尺では計算した数値をセットした瞬間に(計算時間ゼロで)結果が得られる。
それと同じように人間の行動に対して十分な条件をセットしてやれば人間の行動を予測することもできるのではないだろうか。
そのコンピュータが(少なくとも)人間と同等の意思を持ったとしたらコンピュータの反乱といったものではなく想像できないような状況になりそうだ。

12/03/2015

羽田国際空港

私が初めてアメリカに行った時は羽田空港だった。
それからしばらくして成田が国際空港になり羽田は国内のみになった。
でも、最近はまた海外便も使えるようになったようだ。

昨日は夜中に目が覚めて眠れなくなったので、
コマツがアメリカに旅立った日のことを思い出そうとしていた。
あの日どういう風に彼に別れを告げたのか全く思い出せない。
いろいろなシーンとごっちゃになってどれが彼だったのかわからない。

しかし忘れないシーンがある。
彼が(たぶん)ゲートの向こうに消えてから私達は空港の屋上に行った。
そこで彼の飛行機が旅立つのを見送った。
私はフェンスに手をあてて見ていた。
そのうちたまらなく淋しくなって、嗚咽しながら号泣した。
彼が行ってしまった悲しみもあったけれど、何かが終わったという気持ちが強かった。
まるで下手な映画のラストシーンを見るように泣いた。

となりにいたモチが「ちょっと~止めてくださいよ~」と笑って言いながら
私よりも激しく泣き出した。
女性達がいた。誰だったのか思い出せないが、
私達の肩に手をあてて、みんなで固まって泣いた。

考えてみると、まだ22か23だった。
ああいう別れは人生で初めてだった。
私もすぐに学校を卒業して社会人になる頃だった。
あれが「青春」の一つの時代の終わりだったのだろう。


11/24/2015

数学と量子、もっと勉強しとけば良かった

久しぶりに本屋に行った。
しかも2時間以上同じところで立ち読みしていた。

だいたい数学は大学の1年で断念した。
量子力学も量子化学も単位は(確か)とったけれど全く理解していなかった。
量子力学って何だったんだろう?と改めて思った。
それで本屋に行くことにした。
量子に関したコーナーの本を端から眺めていた。
150冊くらいあった量子関連の本のうち基本的なことをちゃんと書いてあったのは2,3冊だった。
それの高い方の本を立ち読みした。
最初の方しか読めなかったけれど、シュレディンガーの方程式がどういう意味なのかまでは
わかった。

そうか、そういうことだったのか。と思った。
学生の頃は三角関数から虚数関数への移行について理解していたのだと思う。
しかしその後の数十年であれが一体何だったのかすっかり忘れていた。
高校の3年間、いや中学からの6年間で数学は公式を覚えて機械的に解くことしか勉強していなかった。だから大学に入って最初の数学(微積分学・線形代数)の内容がほとんど理解できなかった。それで自分はあいかわらず機械的に解くことを考えていた。
あの時単位など気にせずもっと「数学」を勉強すべきだった。

本屋から1冊、1番安くしかもちゃんと書いてある本を買ってきた。
それをまた最初から読んでいる。
三角関数と虚数関数の関係がすんなり理解できた。
何度も読めば自分で最初から解を出せるだろう、とさえ思える。

量子については今まで考えていたことに間違いが多かったのに気が付いた。
なぜ三角関数なのか。
だいたい「波」ではないだろう、と気が付いた。
ラザフォードの原子モデルは間違いだと教えられてきた。電子は雲の様に存在するとか。
改めて考えると結局あの原子モデルは間違えてはいないだろうと思う。
スリット問題にしても、あたかも波のような現象として現われるだけのことだ。
どちらにしても存在確率のことだ。
改めてスリットの現象を考えると、当然のように思える。
あれほど不思議な現象だと思えたのは何だったんだろう。

世界は数学でできているかもしれない。

11/19/2015

子供の頃に一人で観にいった映画

何だったろう?と思い出そうと思った。
たぶん「史上最大の作戦」だったのではないだろうか。
小学校6年の時にノートにヘルメットと海岸の絵を描いていたのを覚えている。
それともう一つよく描いていたのが騎兵隊の旗だ。第7騎兵隊とかの旗だ。
「史上最大の作戦」は新宿のスカラ座だ。前の方の席で午前中から夕方まで観ていた。

それと西部劇をよく観にいった。
それも新宿だった。
「荒野の決闘」(字が違う)とか「黄色いリボン」、「コマンチェロ」、「荒野の3軍曹」、「シェーン」、
「OK牧場の決闘」とか。
「遥かなる大西部」というのがあった「大いなる」ではない。ベンジョンスンが出ていた。
あと何だったかずっとカウボーイソングやウェスタンが流れている映画があった。

新宿の映画館というのは決して12歳の子供が一人で行って良い場所ではなかった。
遥かなる大西部という映画を観たのは3丁目から少し外れた地下の映画館だったと思う。
椅子に座っている人は少なく、逆に壁際によりかかって観ている人が何人もいた。
私は真ん中の席に座って一人で観ていた。別に何も起きなかった。
あとで聞いたらあの映画館はあぶないということだった。

最近はこのあたりの映画はYouTubeに全編アップされていたりする。
ひとつ勘違いをしていたことに気が付いた。
荒野の決闘では最後に保安官が彼女と別れるシーンで終わるが、そこで流れるのが
いとしのクレメンタインだった。保安官は一人で馬に乗って三姉妹の岩(メサ)に向かって
行ってしまうのだけど。彼女は一人取り残される。
「駅馬車」の最後はリンゴと彼女が馬車に乗ると保安官が石を投げて馬車を走らせてしまう。
その最後に流れる音楽は「いとしのクレメンタイン」だとばかり思っていた。
さっき聞いたら「金髪のジェニー」だった。

終わり方としては「駅馬車」の方が好きだ。
典型的なハッピーエンドだ。

11/18/2015

New York 1963, America 1968

やっと風邪が和らいできた。

アニマルズだ。
これを初めて聞いたのはいつだったろう?
アメリカでのリリースが1968年だったようだ。それはタイトル通りなのか。
これはFM放送で聞いた。アルバム全曲放送していた。
その時テープに録音していたのでそのテープを何度も聞いた。

その時は高校3年か大学一年の頃で英語はほとんどわからなかった。
でもこの歌では何箇所か聞き取れるところがあった。
彼らが始めてアメリカに行った時の心境を淡々と歌っている。
何度も聞いていると少しずつ聞き取れる部分が増えていった。
だから、なんとなくだがこの歌がどういう歌なのかわかったような気がした。
smilling face of unknown Bob Dylan
ゴミだらけのグリニッジ・ビレッジだ。
テープは引越しの時にどこかに行ってしまった。

ずっとあとになって私が初めてアメリカに行った時、この歌が突然浮かんだ。
しばらく口ずさみながらLAの街を歩いていた。
あの時は半分仕事だったのでLAでは一人で街を歩いた。

それから40年近くたって。
YouTubeでこの歌を見つけた。
そうか、こういうタイトルだったのか・・・と思った。
歌詞も検索したら出てきた。
そうか、こういう歌詞だったのか・・・と思った。

読み返してみるとあの頃雰囲気だけは受け取っていたのがわかった。
いい歌だ。と思った。

11/09/2015

Vanishing Point

風邪をひいた。
風邪をひくのも久しぶりのように思う。
去年まではほとんど事務所にいたので誰かから風邪をうつされることはほとんど無かった。
今年は家にいるし買い物にもよくでるのでうつってしまうのだろうか。

札幌で風邪をひいたときのことを思い出した。
ひどい風邪だった。
熱がひどかった。
アパートで一人で布団をかぶって寝ていた。
汗がひどくかった。
布団から顔だけだしてテレビを見ていた。
テレビでは映画「バニシング・ポイント」をやっていた。
半分熱でもうろうとしながら見た。
最後のシーンでなぜか思いっきり泣いた。
たぶんあの映画を全部観たのはあの時だけだろう。

考えてみると単なるカーチェイスの映画ではない。
なにかわからないけれど、あれが70年だったような気がする。

この笑顔がいい。
死ぬときはこの笑顔だ。



11/07/2015

後悔先になんとか

前に稲垣足穂のことを書いたけれど、稲垣足穂の分厚い本は確か全部読んだけれど、
覚えていることはほとんど無い。ただ、「失敗した」とどこかに書いてあったと思う。
その失敗したというのは昔出会った美形の少年と後年出会ってその老けた容姿に
ショックを受け「失敗した」と言ったのだと思った。つまりもっと前に親しくしておくのだった、
という意味でだと思う。

おなじようなことを私も先日思った。
昔の録音テープの中に札幌時代に入っていた札幌のフォークソングサークルのものが
あって、その音を聞いていて思い出した。
女性二人組みのデュオいて、そのうちの一人とはよく話をしたように思う。
その二人組みの声がすばらしい。
当時も彼女達の声がすごくいいと思っていた。
だいたいテレコを持ち歩いていくつかのライブを録音したのは彼女達の声を録音したかった
からだということを思い出した。

その音をあらためて聞いてみて、ほんとにいい声だと思う。
当時、もっとじっくり聞けば良かったと思う。
今は彼女達の顔も忘れてしまって、思い出せない。
でもテープに残った歌声はすばらしいと思う。



11/03/2015

量子コンピュータとSF 寝言(2)・・・(3か?4か?)

私が死んでしばらくすればアニリング方式かレーザ方式かわからないけれど、
量子コンピュータはまともに動くようになるだろう。きっと。
ひょっとすると量子ゲート方式の方が画期的な発展をするかもしれない。
しかし、量子の挙動がコンピュータの動きにかかわってくると今まで考えたこともないことが
起きたりしないだろうか。

いつだったかNHKの番組で乱数発生器が人間の活動で乱される(かもしれない)と
いう内容の話をしていた。あれが本当だとするとかなり面白いのだが。
つまり確率に人の意識が影響を与えることができるとすると、いわゆる超能力も
ウソではないかもしれない。
私自身はある種の超能力は存在すると思っている。
例えば「予知」というのはあると思っている。
存在するというと御幣があるかもしれないが、「あたかも予知したようなことが起きる」
という現象はあると思う。
決して「起きた事が、予知していた事だった」ということではない。
あくまでも「予知」が先だ。
これは何度か経験がある。 
山道を歩いていて、角を曲がると池が見えるるはず。と思って歩いていくと池があったり。
それは予め地図で見ていたからだとも考えられるが。この時は一人だった。

アパラチアの山道を友人と歩いていた時に、友人に「屈強な男達が向こうから走ってきたりして・・」
と言って笑っていたら、向こうから学生達が10人くらい走ってきた。

襟裳の県道を夜中に走っていて、「犬だ」と声を出して言ったら見えない角を曲がった先の道の真ん中に犬がいて、知らなかったらひいていた。この時も友人が隣に乗って驚いていた。

仕事で友人と名古屋に車で納品に行った途中、中央道を友人がいい気になって走っていたので、
「この先、道路が規制されて1車線になってネズミ捕りしてるぜ」と私が言ったら、友人が笑って
「こんなとこで規制するわけないじゃん」と言った直後のカーブの向こうでパイロンが並べられ、警官が旗を振っていた。

こまかなものを入れると数え切れないけれど、全部「私にしか」わからないことだ。
だから『私は』予知はあると思っている。

それで、量子コンピュータだけれど、考えられる在ったらちょっと怖い現象だけれど、
「コンピュータの判断結果を考えると現実はこうなってなければいけないはずだ。」
というようなことは起きないだろうか。
つまり前後が逆になるようなことはないだろうか。
計算によると猫は死んでいるからアルファー線は出ていたはずだ。
と言ったような・・・寝言。












11/02/2015

ガラス細工と量子コンピュータ

学校の卒業研究の時は神埼先生にカラス細工を教え込まれた。
細い管を細工するのはだいぶ上手くなっていたと思う。
でも大きな器具は先生まかせだった。
私はよくガラス製の溶融塩炉を壊した。
壊したと言っても、まだガラスが熱いうちに真空ポンプで引いてしまって、つぶして
しまったことが何度かあった。
同じ失敗を何度もするのが私のようだ。

その大きなガラス容器を先生は新しい大きなガラスガラス管をつないで補修した。
補修した後は弱い炎をあてて何時間もかけてゆっくりと冷やした。
ガラス加工には熱処理(アニーリング)が必要だ。
600度以上のガラスをゆっくりと時間をかけて冷ましてやると丈夫な修復ができる。

量子コンピュータはどうやって「計算」するのだろう?と思っていた。
ちょっと読んでみた。
どうやら「計算」をするのではなく、「自然のなりゆき」のようだ。
ガラスや鉄を真っ赤にしてからゆっくり冷ますと安定なものにおちつく。
それに相当することをやらしているようだ。

今のところ「最適化問題」に限定した「計算」しかできないようだ。
つまり熱くしておいてアニーリングすれば安定なところ(最適なところ)に落ち着く。
それと同じ原理を利用しているようだ。

たぶん、私を含め、大多数の人はそのハードウェアがどのように動いているのか
理解すらできない。デジタルコンピュータの黎明期もそんなもんだった。
CPUとその回りのICが何をしているのか知ってる人はわずかだった。

量子コンピュータはその動きだけ見てみるとアナログコンピュータににている。
サイン波に乗数を掛けると勝手に波は大きくなる。
量子コンピュータもあの中では計算やシミュレーションが行われているのではなく
自然現象というか自然の成り行きで結果が出てくる。
そんなもののようだ。

量子コンピュータでグラフィック処理ができるようになる頃まで
生きていられるだろうか。
もし今のコンピュータのように使えるようになったら、
本当にコンピュータの中に一つの世界が作れるかもしれない。


10/31/2015

スーパーストリングス理論

世界がどこかの管弦楽団の演奏している旋律だとすると。
スーパーストリングスだ。超弦楽ね。
あっちのスーパーストリング(超ひも)理論はよく知らないけど。

しかしNHKで時々やっているコズミックフロントや数学理論の特集などをみても、
結局何もわかっていないんじゃない? と思う。

世界が人間の意識の上で成り立っているという考えはちょっと無理があるような気がする。
つまり人間がいなかったら世界も無い。
というのは動物にとって失礼だろう。
人間が他の動物から進化してきたとすると人間のいなかった時代もあったわけだから。

それから世界は自分の意識の中だけで存在する。という人もいるね。
自分が死んだら世界も終わる。
自分が死んだら他の人の意識なんて意味がなくなる。

あるいは世界は誰かのコンピュータの中の世界でしかないとか。
これはある程度賛同できるけれど、前にも書いたように”いわゆるコンピュータ”ではないだろう。
それに極めて似たシステム。
たぶん。
光がシステムクロックのような役目をしている。
だから光を超えることはできない。
とかなんとか。

時々、チューナーが合ってると言っているのに、
どうしてもチューニングが合わない時がある。
少し落としたり、上げたりした方がしっくりくる。

昔はチューナーが無かったから音叉で合わせていた。
当時の録音を聞いてみると、
「合ってねえなぁ~」
あれでよくやっていたと思う。









10/28/2015

誰かが弾いているピアノの旋律

要するにこの世界は誰かが弾いてるピアノの旋律のようなものなのだろう。
我々は旋律だ。
旋律にとってそれを誰が弾いているかを知ることはできない。
ただそれがある決まった法則によって流れていることは知ることができるかもしれない。
一つ一つの音が他の音とどのような関係にあるのかはわかるだろう。

旋律にとってピアニストは別次元のものなのだと思う。
この関係はコンピュータプログラムとプログラムによって動いているオブジェクトの関係と同じだ。

あるいはもっと大きなものかもしれない。
壮大なオーケストラによって奏でられている終わりの無いシンフォニーかもしれない。
私はその音楽の中のコントラバスの低い旋律の一部かもしれない。
あるいはピッコロの鋭く響くたった一音かもしれない。その音はそのままコンサートホールを
突き抜け消えて行く。まだ交響曲は終わっていないのに。

そういえば「天上の音楽」という曲があったなあ。あれはヘンデルだったかな?
いや、ヘンデルは「水上の音楽だ」。
モーツアルトだったかな?まあいいいや、
音楽と世界の構造の類似点に気が付いたのはきっとはるか昔なんだろう。
たぶん古代の哲学者の方がわかっていたのだろう。



10/25/2015

Thick as a brick 「ジェラルドの汚れ無き世界」


あれはまだ学生の頃だった。
FMでこれを全曲放送していた。
FM東京だろう。
早速レコードを買いに行った。

邦題の「ジェラルドの汚れ無き世界」、当時は別に気にもとめなかった。
それよりもこの音楽のタイトな完成された世界がすごいと思っていた。
ジャケットに何が書かれていようが関係なかった。
でも、このジャケットは素晴らしかった。
(当時はそう思っていたのだけれど)新聞記事をそのままジャケットにしていた。
これは実際にあった話だろうと思っていた。
これがどういう話題でどういうふうにジェスロ・タルと関係しているのかなど全く知らなかった。
今見てみると左上にJHETHRO TULLというロゴがあるが、当時は「怪しい」とさえ思わなかった。

これは一体何の記事だったのだろう?と改めて思った。
これは何が書いてあるんだろう?と初めて読もうという気になった。
「Thick As A Brick」というのはどうやらこの写真の少年が書いた(とされる)「詩」のようだ。
大見出しと中見出しにはこの9歳の少年の名前がジェラルド・リトルミルトン・ボストックと書かれている。
リトルミルトンというのは文豪ミルトンの名前を茶化してつけられている。
そして、そのジェラルドの勝ち取った受賞が失格になったと書かれている。
その失格を宣告したのはThe Society for literary advancement and gestationとなっている。
これは「文学的な進歩と妊娠のための協会」ということからして変だ。
そのあと、彼がどういう少年でどういう背景でそうなったのかが書かれている。
また家族がその受賞(賞金)を失っていかに失望しているかなど書かれている。
めんどうなので読まない。
他の記事には54歳の女性がラリって頭を怪我したとか、フルートとチェロのアンサンブルの
コンサートが行われたが一部観客のせいで中断させられたとか、
全部読んでみると面白いかも。
”売ります買います”の所にはLサイズの柔道着とかスワヒリ語のレコード求む、とかある。
と、ここまでネット上の画像を見て書いたが、
自分のレコードがみつからない。
どこ行ったろう?

追記:
ところでこの写真は何だったんだろう?
読んでみるとこれはこの新聞記事の数週間前に行われた詩の授賞式の時の写真らしい。
左から、主催者のClive 'Polly' Parritt、少年の両親、本人(Gerald Bostock)、
Julia(彼が詩を書いているジェラルドの仲良し)
とか。




 


10/24/2015

土星・アンドロメダ・オリオン・CCD・ペルチエ・双眼鏡

秋葉原で会社をやっていた頃の話だけれど、
昼休みや夕方はだいたい街を散策していた。
秋葉原と御徒町の中間ぐらいに望遠鏡や顕微鏡を売っている専門店があった。
確か「アトム社」と言ったと思う。
現在は「スターベース」という会社になっているようだけれど、現在その店のある
場所とは山手線を隔てて反対側だったような気がする。(怪しいけれど)

ある日の夕方、まだ太陽が完全には沈んでいなかったと思うけれど、
その店の前で店員さんが反射望遠鏡(確かビクセン)を組み立てていた。
一度そこを通り過ぎて、御徒町から戻ってまたその前を通ったら店員さんが
望遠鏡を覗いていた。
「何か見えるんですか?」と私が聞くと、
「ちょうど今土星が見えています。輪は今の時期見づらいですが・・・どうぞ」
と言って私に場所をゆずってくれた。
アイピースをのぞくと、ゆらゆらと土星がそれとわかる形で見えた。
私は正直、感動した。
秋葉原のしかもまだそんなに暗くない夕方に土星が肉眼で見えたことに
驚き、感動した。
その後店員さんが何かその望遠鏡について説明してくれたが、全く覚えていない。
それよりもその土星の姿が忘れられなかった。

それからしばらくして、子供のおもちゃを買いに行ったお店で、望遠鏡を売っていた。
鏡筒と簡単な三脚がついたおもちゃのようなものだった。
それを買ってみようと思った。
家に帰って月を見てみた、とてもきれいに見えた。
星はちょっと滲んでさすがにおもちゃだった。
どうも私はただ確かめるためだけに何かを買うことが多い。
確かめたらもう満足してしまってどうでもよくなる。

それで、おもちゃでもかなり見えることがわかり、あの土星を見たような望遠鏡は
どうだろう?と思いついた。
あの秋葉原のお店に見に行った。
あの店員さんがいた。
買えそうな値段のものを選らんだ。
タカハシの76mm屈折と赤道義を買った。
今だったら絶対に買えない金額だった。
反射か屈折か迷ったが屈折にした。

夜にセットして見てみた。
正確な北がわからなかった(北の空が家に隠れて見えなかった)ので方位磁石で
合わせて微調節した。
確かにおもちゃのものよりずっときれいに見えた。
毎日見ているとだんだん慣れてきて、今の時間空のどの方角がどの星座かが
わかるようになる。
星雲は見えないだろうかと、アンドロメダを探した。
「見えた」、見えたけれどぼやっとしている。
当然なのだけれど、まあこんなものか、と思った。
肉眼できれいに見える星雲はオリオンだろう。
横浜でもきれいに見えた。
あの望遠鏡では本当に楽しんだ。

それから、その頃実験的な報告がされていた冷却CCDを仕事半分で作ってみた。
とりあえずSONYの産業用CCDカメラを分解してCCDを外し、その後ろに銅で
冷却器を付けそれにペルチエ素子を付けた。
SONYのCCDカメラはCCDの蓄積時間を外部から変えることができた。
フィルムカメラのシャッター開放に相当することができたので、開放のタイミングと
CCDから一度だけ流れ出てくる映像信号を取り込む画像メモリーも作った。
それでアンドロメダを撮ってみた。
それほど長い蓄積時間でなくても星雲はかなりくっきりと写った。

その当時のビデオカメラはNTSC準拠で、解像度は400*400くらいしかなかった。
実際にはもっと低かったかもしれない。
それでも当時は満足だった。

しばらくして望遠鏡には飽きてしまったけれど、星を見るのは今でも好きだ。
今思うには、天体観測を楽しむのに一番いいのは双眼鏡だと思う。
7×10くらいの明るい双眼鏡がいい。
それで寝転んで夜空を見ていると星の中にいるような気分になる。
オリオンもはっきり見えるし、アンドロメダだってちょっと視線をずらせばそこに
あることははっきりわかる。
時として流れ星が視野を横切ることもある。

空を見るには双眼鏡がいい。

10/22/2015

素数はどうやって求めるのだろう?

ということを夜中に目覚めて考えた。
たぶん気のきいた方法があるのだろう。
検索すると出てくるかも。
でも検索したら面白くない。

最もばかばかしい方法はなんだろう?
あるNに対して、2からN/2まで計算して割り切れることがなかったら素数だろうか。
ただし最下位が2,4,6,5,8,0は除く。
1桁の3,5,7は除外する。
時間はかかるけれどそれが良さそうだ。

次に問題になるのは、どうやって計算するかだけれど、
昔ならN-BASICとかで簡単にプログラムできたけれど、Windowsには付属していない。
無料のC#をインストールして・・・という方法もあるが、始めるまでが面倒臭そうだ。
そういえばC#はDelphiに似ているみたいだからとっつきやすいかも。

今のままでなんとかできないだろうか。
EXCELはどうだろう?
ちょっと考えてみた。
できないことはなさそうだけれど、なんか面倒くさそうだ。

やっぱりこういうのはBASICだと思って探したら、
MicrosoftからSmall BASICというのが無料で配布されているのがわかった。
これは子供向けと書いてあったけれど、内容は十分普通に使えそうだ。
早速インストールしてみた。
なかなかいいかもしれない。
少なくともPC-9801のエミュレータでBASICを使うよりもスマートだ。

ちょっとプログラムを作ってみよう。

追記:
しかしもっと気の利いた方法は無いだろうか?
この方法では数が大きくなると恐ろしく計算時間がかかる。
ボゴソートとかボゾソートに匹敵しそうだ。
もう少し考えてみよう。

10/19/2015

加藤登紀子・知床旅情 「白いカモメよ」?

加藤登紀子も知床旅情も嫌いだった。
なんだか知らないが、あの歌い方が嫌いだった。
ものすごく良い声だ。
あれの何が悪いというのか・・・
でも嫌いだった。

知床旅情、北海道のことを歌った歌でたぶん最も有名で最もヒットした歌だろう。
でもあれが嫌いだった。
わざとらしい歌詞がきらいだった。
一体何を歌っているのか解らなかった。

しかし最近、加藤登紀子も知床旅情も実はとても良い歌手であり良い歌だと
思うようになった。
それはこのビデオの歌を聞いたからなのだが、

この歌い方は素晴らしいと思う。
ちょっと感動さえする。

ただ、昔からおかしいと思っていたのが、
「白いカモメよ」のところだ。
私も何の気なしにそうだと思っていた。
でもよく詩をみてみると答えが書いてあった。

     忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん
     私を泣かすな 白いかもめを

となっているから、詩の作りかたとしては
出て行くのは「黒いカラス」であり、
残されるのは「白いカモメ」であるので、
意味的にも「白いカモメを」が森重の意図するところなのだと思う。

宮沢賢治はひょっとすると全てを知っていたのか?

要するに、何も無いただの空間であるはずなのに何らかの作用が働いているということは
この世界の外に、この世界を動かしているものがあるのだろう。
凡庸な考えだけれど、ちょうどコンピュータのプログラムによってプログラムの世界が
作られているように。

仮に、この世界がそういう構造になっているとすると、人はどうやって自分を動かしている
プログラムを知るだろう?
それがたぶん自然科学なのだろう。
この世界を制御している法則を探し出し、それで世界を解明しようとしている。

しかし、プログラムの中の人間はどこまでプログラム自体、あるいはコンピュータ自体を
知ることができるだろうか?

ところで、宮沢賢治の「春と修羅」を思い出した。
この詩は全くそういうことを言っているのではないだろうか?と
最近思う。
特にわざわざ「因果交流電灯」と言いなおしているのはすごいと思う。
この人は何だったんだろう?と思う。

「わたし」は現象だと言っている。
つまり単なる物質ではなくそれを観察し確認しいた「存在」だと言っている。
「仮定された有機交流電灯」というのは言い換えれば、
そこにあるだろうと思われる光量子、ということだろう。
なぜ「青い照明」なのだろう?
英語では青は特別なという意味があるので、そういう意味だとすると
自分は特別な存在だと言っているのだろうか。
「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」、これは量子論的にありえる存在の
全ての存在をとりうるという意味だろう。
「風景やみんなと一緒に・・・・・・いかにもたしかにともりつづける」
これはこの世界のすべてが量子から成り、全てがあたかも確実に
存在しているように見えると解釈できる。

「(ひかりはたもち、その電灯はうしなはれ)」
これはたぶん自分を存在せしめていた照明自体は失われたけれど、
光子はその存在をたもっているといういみだろうか。

しかも「因果交流電灯」と言っている。
因果はもちろん因果律のことを言っているのだろう。
つまりこの世界を動かしているプログラムだ。
交流はalternateだから、量子の挙動を言っている。
電灯はその存在を示す光子だ。

この詩はもっと長いのだけれど、全部を解釈したら面白そうだ。

・・・という寝言を書いてしまった。
この詩は小学校6年の図書館で初めて読んだ。
意味は全くわからずその時の不思議な感覚だけが残っている。
それが宮沢賢治の「ひかり」なのかもしれない。


     わたくしといふ現象は

     仮定された有機交流電灯の

     ひとつの青い照明です

     (あらゆる透明な幽霊の複合体)

     風景やみんなといっしょに

     せはしくせはしく明滅しながら

     いかにもたしかにともりつづける

     因果交流電灯の

     ひとつの青い照明です

     (ひかりはたもち、その電灯はうしなはれ)

10/13/2015

世界の外とのI/O インターフェイス

それじゃあ、コンピュータの中に世界があった場合彼らはどうやってその世界の構造を
探ることができるだろう?
一つの方法としては純粋に意識の世界だけで世界の構造を考えることがあると思う。
この世界で言えば神学とか哲学がそれに当たると思う。
宇宙の構造を解明しようとする最先端では物理学と神学は一緒になっているという話しも
あることだし。意識の中だけで宇宙の構造を探ることもできるのかもしれない。

もう一つの方法は何かしら外部へのインターフェイスを持つことだと思う。
コンピュータで言えばI/Oインターフェイスになると思う。
ただ「O」とは何か?と考えるとちょっとわからないので置いておこう。
とりあえず入力だ。
デジタル入力もあるだろうしアナログ入力もあるだろう。
たとえばコンピュータの中の人間がキーボード入力の存在に気が付くことができるだろうか?
あるいは何がしかのセンサー入力のようなものの存在に気がつくことができるだろうか?

それは可能かもしれない。
カミオカンデのようなセンサーを使ったり、シンクロサイクロトロンのような装置を使って
世界の外を見ることができるかもしれない。
ただしそれらはプログラム上というか世界を動かしているソフトウェアの上で動くもの
でないといけない。そういうことができるだろうか?

現実のこの宇宙の外を探ることができるだろうか?
外の世界を探るI/Oインターフェイスがあるだろうか?
まえにも書いたけれど、重力センサーみたいなものは外の世界の空間の歪を
検出できるかもしれない。他に何かないだろうか?
光も何か使えそうな気がする。
あるいは素粒子のどれかがそういう性質を持っていないだろうか?

10/12/2015

空間は何を持っている?

たぶん同じ事をもう360回くらい書いているような気がするけれど、
この疑問は繰り返し襲ってくる。

この前プログラムのことを書いた時にも思ったのだけれど、
この世界の出来事はある種の制御命令のようなもので動いているとすると、
その命令は空間の中に書かれているのだろうか?
例えば、地球を出て適当な宇宙の1立米の空間をガラスかなにかで囲って
中の空間を外と遮断する。
その1立米の空間は幾何的な(数学的な)性質、つまり3次元空間という以外に
何を持っているのだろう?

たとえば水素と酸素を混ぜてその空間に入れて火をつけるか、あるいは何か触媒
になるものを入れると水ができるはずだ。
できなくてもいいのに。
なぜ酸素と水素を化合すると水ができるという法則をその空間は持っているのだろう?
それに、一体その空間はどういう形でその法則を備えているのだろう?

あるいは、空間は数学的空間なのだけど、その空間に何らかの力を与えている何かが
その外にあるのだろうか?
その外と考えると、それは次元が違うような気がする。

あるいはまた、酸素と水素を反応させても水ができない空間(別の世界)というのは
あるのだろうか? H4O3 ができるとかあっても良さそうだ。

もしもこの世界の空間がただの数学的な空間だとしたら、何も起きなくてもいいはずだ。
その宇宙の1立米の空間にはもちろん空気は入っていないし、ゴミを一つずつ全部つまみ出して
まったくクリアーな空間にしてもいい。
その中にねずみを1匹いれると死んでしまうだろう。
なぜだ?
何も起きなくてもいいはずなのに。
だれがねずみを殺したのだろう?

それは一つ一つの細かな自然法則がねずみを殺すことになっているのだろうけれど、
その自然法則はどういう風に空間に影響を与えているのだろう?

もう一度コンピュータのプログラムに戻ろう。
コンピュータの中に一つの世界があったとすると、その中で暮らしている人は自分が
制御されているプログラム(自体)の存在は直接知りえないだろう。
おそらく今のこの世界と同じように、「こうすればこうなる」的な法則を調べ上げて
それを彼らの世界の法則とするだろう。
つまり、今この世界の自然法則は全てそういう形で自分達には結果しかわからない
ようになっているのではないだろうか。
この世界の外の次元に自然法則を司るなにかがあるのではないだろうか。

しかし、そういう自然の法則という複雑なものでなく、数学はどうだろう?
再度、コンピュータのプログラムだけれど、コンピュータの中の法則というのは
たぶんモジュールあるいはオブジェクトあるいはサブルーチンのように命令系の組み合わせ
でできているはず。
たぶんこの世界の自然法則も細かな法則の組み合わせでできている。
しかし四則計算に始まる数学の計算はそのままの形で組み込まれる。
1+1=2だ。
この1+1=2はコンピュータの中の世界の人間にとっても、そのプログラムを作った
人間にとっても共通だ。
だからもしこの世界も同じように外の次元からの法則で動いているとしたら、
数学だけはこの世界も外の世界も共通なのかもしれない。
素数の並びなどを見ても、どうも作為的な感じを受けるのは、外の次元の世界も
そうなっているからのような気がする。















10/10/2015

量子について、似てると思ったこと 覚書(寝言)

1.光の速さとコンピュータのクロックは似ている。
  物体は光の速さを超えて動くことはできない。
  プログラムはクロック周波数を超える速さでアクセスすることはできない。
  コンピュータの中に一つの世界が存在したとすると彼らはクロック周波数以上の
  速さで移動することはできない。
  プログラムを分岐して軽い動作のモジュールにしたとしてもクロック周波数を
  超えることはできず、クロック周波数はどのモジュールで計っても同じだ。

2.粒子と波 は デジタルとアナログに似ている。
  素粒子が波と粒子の挙動を持つことと、デジタル波形(デジタル信号ではない)は
  クロック周波数に近い周波数で見るとアナログ波形になるのと似ている。
  アナログ波形が完全に波の性質を持つのと同様デジタル波形も非常に高い周波数では
  アナログ的性格になる。
  周期性は別として波形はどこでデータが1から0あるいは0から1になるか判断できない。
  ある閾値を設定して0か1かを決めるしかない。

3.デジタル信号(ただし周期的矩形波)がフーリエ級数で現すことができるように、
  素粒子の挙動もある種のフーリエ級数のような級数で現すことができるような気がする。

4.時間は戻すことができない。
  プログラムによる動作は戻すことができるだろうか?
  例えばA-B-C-Dと進んで来たシーケンスをD-C-B-Aと戻すことができるとしたら、
  それはどういうアルゴリズムだろう?
  まずA,B,C,Dという動作はそれぞれ一つにまとまった動作でなければいけない。
  ルーチンあるいはオブジェクトあるいは手続のようにまとまったもの。
  それではそれをD-Cと戻すには、プログラム自体を変えることなくできるだろうか?
  クロックは反転しても変わらない。
  プログラムカウンターを逆転させたらプログラムは動くだろうか?
  例えば原始的な
                 
            LD A,(BC)
            LD(address),A
           LD HL,address
           LD A, data
           ADD A ,(HL)
           LD(address), A

   のようなプログラムでも各命令をそのまま逆の順番で動作をさせるだけでは
   逆転しても意味のある動作をさせることはできない。
   プログラムカウンターを逆転させても各命令の意味も逆にしないといけない。
   これにはプログラム自体を変えないといけない。

   逆転させても動作が意味を持って反転するようにするには、プログラムはパイプライン
   処理の構造かあるいはスタックの構造をしていないといけないと思う。
   パイプラインにA-B-C-Dという流れが入力された時、クロックはそのままで
   (あるいはクロックの位相を変えて)反転動作をする「スイッチ」を入れれば
   動作は行われたと通りを逆に行うはず。
 
 それが非常に長い時間の動作を逆に行うことができるとしたら、非常に長いパイプライン
 を持った構造になるだろう。

 もしもこの世の時間を戻すことができるとしたら、世の中の全ての現象はパイプライン状
 に起きているはず。それは全ての現象が一意的に最初から決まっていることになる。









           
  

10/07/2015

PLEASURE PLACES and THE ENGLISH SUNRISE

確か1978年頃だったと思うけれど、Williamが2冊の写真集を札幌に送ってくれた。
1冊はPLEASURE PLACESという写真集でもう一冊は THE ENGLISH SUNRISEという
写真集だった。

今、思うのは彼は何故この2冊を送ってくれたんだろうということ。
彼は本屋で適当にこの2冊を選んだのだろうか。
あるいはこの2冊でなければいけないと思ったのだろうか。

私は写真の学校などへは行っていない。写真については本でしか学んでいない。
全くの素人だ。
でも嫌いな写真というのはある。
観光地でお約束のように撮った写真や、なにか特別の出来事があった時に
記念に撮っておくような写真がそれだ。
最近だと「今日はスーパームーンだから」とブログに貼るような写真だ。
あるいは誰でもカメラを向ければ撮れるような花の写真。
そういう写真は写真ではあるけれど、自分の写真ではないと思う。

この2冊の写真集はそういう写真ではない写真を撮る「理由」のような意味があると思う。
THE ENGLISH SUNRISEの方は朝日を象ったものばかりを街や生活の中で探し出し
それを写真に撮っている。
確かにこういう写真の撮り方があると思う。
日本ではマンホールの写真ばかり撮っている人や車のエンブレムだけを撮っている人が
いる。
私はこういう写真の撮り方はあまり好きではなかった。
色々なもののコレクションは好きだが、写真でそれをやろうとは思わなかった。

もう一つのPLEASURE PLACESは、素晴らしい写真集だ。
写真自体は小さな写真なのだけれど、何を撮っているかがすごい。
街を歩いて自分の気に入ったシーンを撮っている。
決して珍しい景色ではないし、記念すべき風景でもない。
ただ、自分しか気が付かなかったであろうシーンなのだ。
この写真集は札幌に居たころには毎日のように眺めていた。
こういう自分だけの写真が撮りたいと思っていた。

その後何度も引越しをして、この2冊はすっかりどこかに紛れてしまっていた。
最近会社の事務所を引き払って物を整理していたら、この2冊をみつけた。
ものすごく久しぶりだ。
改めてPLEASURE PLACESを見ていたら、どこかで見た感じがした。
自分の写真のファイルを調べたらそっくりな写真が何枚もあった。

                  PLEASURE PLACESから
                    私の写真

 
 
PLEASURE PLACESから
                         私の写真
 
 
PLEASURE PLACESから

                          私の写真
 

決して真似をして撮ったわけではないけれど、記憶の中にPLEASURE PLACESの写真集
の写真があったのだと思う。
これ以外にも沢山おなじような写真がある。
無意識のうちにおなじような写真を撮っていたのだろう。

要するに私にとっての写真はこの写真集が模範だったのだと思う。

そこでまた思うのは、彼は何故この写真集を送ってくれたのだろう?
ということだ。




10/06/2015

昨日、悲別で

このドラマは私が札幌から東京に戻って2年目の1984年3月から始まった。
悲別(かなしべつ)は架空の地名だけれど、映像からすると上砂あたりだろうとわかった。
砂川、滝川、深川、旭川はいずれもとても懐かしい地名だ。
深川は札幌の友人の育った土地だ。
一緒に小学校を見に行ったことがあった。
小学校は平屋で昔ながらの作りのかわいらしい学校だった。
それほど広くない校庭はたぶん桜の並木で囲まれていた。
写真を撮ったはずだが、みつからない。
友人は滝川でも暮らしたそうだ。
その頃の家を見に行った。
長屋のような作りで駅のすぐ脇にあった。
まるで幸せの黄色いハンカチに出てきたような住まいだった。
思い出してみると、何故かとても懐かしい。
まるで自分が育ったところのような気がする。


グラフティーのストーリーは私とは全く違っていたので、共感する部分は少なかった。
当時、あと5歳若ければもっと感じる部分があったかっもしれない。
「駅・ステーション」には共感できる部分が多かったけれど、悲別にはそれが無かった。


ただあのグラフティーの中の東京の暮らしは、ちょっと前の私の東京(実際は千葉)一人暮らし
に重なる部分はあった。
札幌の冬は大きなポット式のストーブだったけれど、東京ではこれだ。
これで十分だとわかった時、あらためて札幌の寒さを思い出した。


このシーンに至る前のシーンは車で駅まで駆けつけるシーンだ。
その途中の景色は当時の北海道だ。
道は未舗装が多く、雪が無いと砂煙を上げて車は走る。
駅前は全て駐車は無料だった。
車を駅舎の横に駐車してしばらくそのままでも全然問題なかった。
この石田えりの髪型は当時みんなこれだった。
私自身の髪もこれに近かった。

このドラマの石田えりはとても良かった。
もう一人、ビデオを見て思い出したけれど、この「大人物」はドラマでは何歳くらいの
設定だったのだろう?
たぶん、今の私より若いのではないだろうか。
大滝秀治さんは計算してみたらこの時59歳だ。
なるほどね。

ドラマの終わりには毎回「22才の別れ」が流れた。
この曲はなぜかこのドラマにぴったりだったような気がする。
歌の内容はドラマとは関係ないけれど、なんとなくだ。



ドラマの最終回だけ、終わりのシーンが違っていた。
いつもは雪のシーンをバックに「22歳の別れ」が流れたが、この最終回だけは
少女とそれを追う男子生徒のシーンだった。
そこに一匹猫が映っているのだが、この猫は偶然入ったというようなことを聞いたように思う。
とても演技派の猫だった。

この少女は石田えりだろうか?
ということをずっと考えていたりする。
いずれにしてもこのシーンはとてもいいシーンだ。


9/26/2015

駅 STATION

札幌の工場でパートの人達と仕事をしていたとき、回りの音楽は歌謡曲であり演歌であった。
自分では洋楽ばかり聴いていたけれど会社にいたとき聞こえてくるのは歌謡曲、演歌だった。

テレビではないけれど、高倉健主演の映画「駅 STATION」も自分を追いかけてきた映画だ。
この映画が公開されたのは私が札幌から東京に移った年(1981年)だったし、映画の中で
事件が起きる年は私が札幌に赴任した次の年(1976年)だった。


この映画は北海道の生活というか北海道に生きる雰囲気がよく表されているように思う。
流れる音楽は演歌でなければいけない。
私の場合、この映画の中の雪のシーンが好きだ。
自分が雪の中にいた時のことを思い出す。
一人で吹雪の中を歩いていた。
港に車を停めて荒れる海を見ていた。


増毛へは何度も行った。
石狩から増毛へはずっと左に海を見ながら走る。とてもきれいな道だ。

 
銭函は小樽に行く時に通るが、車だと駅に行くことはない。
たぶん駅へ行ったのは1,2度しかない。
5号線から駅は少し離れている。
銭函から朝里へ行く途中5号線は大きくU字型に迂回させられる。
山肌にそって谷を迂回していた。
その場所が好きだった。
ずっと遠回りをさせられるのだけれど、上に高速の橋がかかり、その下を走る。
U字の頂点のところでは海が臨めた。


雄冬は増毛に行く途中だ。
この同じ場所で写真を撮った記憶がある。
そうだ、札幌を離れる直前の2月の終わりに、ここを通った。
あれは真冬の吹雪の日だった。
前にその時の写真を貼ったような気がする。
冬の稚内へ行ってみようと思い、どこまで行けるかわからないけれど、
行ってみようと思った。
でも吹雪がひどくて、留萌を過ぎた直線道路のあたりで、
「もうここでやめよう」と、車を停めて窓越しにカモメを撮った。
その時、一緒に行った人はもういない。
最後は電話で話しただけだ。
札幌を離れる時、車のルームミラーに手を振る姿が写っていた。
そんなシーンもだぶる映画だった。




9/25/2015

北の国から

先にどうもテレビが自分の人生を追いかけてくるような気がする、と書いたけれど、
この「北の国から」は私が札幌から東京に戻った年に始まった。
実際はこのドラマの舞台は私の住んでいた札幌とはあまりに違う世界だったけれど、
北海道の景色を見ることができるのが嬉しかった。
ドラマは全て観た。
いやがうえにも北海道が懐かしくなる。
しかしあまりに淋しいストーリーだ。

富良野には近くまでしか行ったことがない。
前田真三さんで有名になったあの景色は意識して見た事がないかった。
たぶんどこかに行く途中に通過しただけだったのではないだろうか。

あのドラマは一度終わってもその後スペシャル番組として継続して物語が語られていた。
だから2000年過ぎてもまるで北海道がついてきているような気がしてならなかった。



9/24/2015

俺たちの旅 俺たちの朝 俺たちの祭

どうもテレビは自分の人生を追いかけてくるような気がする。
私が札幌に赴任した年に始まった番組に「俺たちの旅」があった。
これはほとんど毎回見ていたと思う。
別に誰か好きな俳優が出ていたわけではないのだけれど、井之頭公園や
杉並、新宿あたりでロケをしていたので、その景色が懐かしかった。
特に井の頭公園は懐かしかった。そのために見ていた。
物語はほとんど覚えていない。
カースケ、グズロク、おめだ、ワカメという名前は覚えている。
 
 
その次の年にやっていたのが、
「俺たちの朝」だった。
このロケ地は鎌倉と湘南だった。
その場所も私が学生の頃にしょちゅういた場所だったので、
江ノ電、極楽寺、鎌倉、稲村ガ崎、江ノ島・・・
とても懐かしかった。
このドラマもそういうわけであまりストーリーは覚えていない。
カーコ役の長谷直美は好きだった。
それで見ていたようなものだった。

 
 
その次の年(1977年?)にやっていたのが「俺たちの祭」だった。
これはなぜか見ていなかった。
確か都内がロケ地だったと思うkれど、あまり思い入れがなかった。




9/23/2015

おはよう720 (続きの続き) 白日夢

ロジャーウィテッカーの「ラストフェアウェル」ともう一つよく覚えている曲があると書いたけれど、
もう一つは松任谷由実の「白日夢」だ。
これを聴くとキャラバンのシーンが目に浮かぶ。
   
  白い夏服が風にはためいて
  私はしばらく平原の鳥
  長かった夢を
  明日は後にして
  サボテンと
  ブラインドの部屋へ

その頃住んでいたアパートはブラインドではなかったけれど、朝は出かけるので
いつもカーテンを閉めていた。
カーテン越しの光の中でテレビを見ていた。
その感じを思い出す。

この歌はところどころの歌詞を覚えていたけれど、札幌を後にしてから
時々、あの歌はなんていう歌だったのだろう?と思っていた。
レコード屋に行った時に松任谷由実のレコードを見ていたけれど、歌詞を見ても
どうもそういう歌詞が見つからなかった。
そのままずっと時が過ぎて、すっかり忘れていた。

インターネットが普及してきて、ホームページやメールも自由に使えるようになって、
音楽関係の掲示板で尋ねたら、ファンの人がすぐに教えてくれた。
それで「白日夢」という歌だとわかった。
調べてみると「おはよう700」では1980年の3月31日から流れた、とあった。
それが本当とすると私は少し勘違いしていたようだ。
私が札幌を離れたのは1980年の3月だと思っていたけれど、そうだとすると
この歌を700で聴くことはなかったはずだ。
自分はいったいいつまで札幌にいたのだろう?と考えてしまった。
それで何かマイルストーンは無いだろうか?と考えたら、ジョンレノンがいた。
ジョンレノンのショッキングなニュースはバードマンションのあの部屋のテレビできいた。
ジョンレノンが亡くなったのは1980年の12月だった。
だから私は1981年の3月まで札幌にいたはずだ。
私は5年間札幌にいたと思っていたけれど、6年いたのだ。

9/22/2015

おはよう720 (続き)


「8時の空」というからにはこの二人はおはよう720のあとにやっていたのか。
ということに今気が付いた。

おはよう720も700もたぶん毎日見ていた。
その割りにあまりよく覚えていない。
よく覚えていないのだけど、キャラバンに時々出ていた女性を突然思い出した。
あれは誰だったのだろう? 
検索してみたけれど、どうも昔の画像があまりないのでよくわからない。
だけど、私はどうもその女性が出るのを楽しみにしていたように思う。

とても明るい感じで活発そうな感じの女性だった。
ケンケンではなく片山典子さんでもなく、土居かつえさんでもないと思う。
そうなると長谷川みつ美という人と、前田いずみ というひとのどちらかだと思う。
長谷川みつ美さんという人の写真が無いので確かではないけれど、
前田いずみ さんの当時の写真をみると、この人かもしれないと思う。

あのころの映像はどこかに保存されていないのだろうか。
なぜ突然思い出すほど覚えていたのか知りたい。



9/21/2015

おはよう720

札幌のことで書き込みがあったので、またちょっと思い出したことを書こう。

札幌に居たのは1975年の4月からだ。
小さな(確か9インチ)テレビを買った。ポータブルで車のシガーライターからも
電源が取れた。でもどこか電波の状態がよいところに車を停めないときれいには
見れなかった。
赴任そうそうの頃の下宿で、テレビは何を観ていたのか、ほとんど覚えていない。
今度、図書館で新聞を調べてみよう。

宮の森のバードマンションに引っ越してからは、ちょっと覚えている。
毎朝「おはよう720」を観てから会社に向かった。確か赴任した年に始まった。
それから「おはよう700」になった。
田中せいじさんと水越けいこさんが歌っていたのはよく覚えている。

番組のプログラムで世界各地を周るキャラバンをやっていた。そのバックに色々な
音楽が流れていた。Beautiful Sundayは置いといて、一番良く覚えているのはRoger Whittakerの
The Last Farewell と 松任谷由実の「白日夢」だ。

その時テレビから録音した音がカセットに残っていたのでYouTubeにアップしておいた。

ラストフェアエルの方は良く聴いた。この歌はアフリカを後にしてイギリスに帰る時の歌だけれど、
印象的な歌詞がある。
離れて行くアフリカに向かって
     
    君は美しい
    心から好きだった
    言葉では表せないくらいに

と呼びかけるところは心に響く。

私は北海道を去る時の青函連絡船のデッキでこの歌をウォークマンで聴いた。
函館の灯がだんだん遠ざかっていくのを見ながら 

     For you are beautiful,
       and I have loved you dearly
     More dearly than the spoken word can tell

と心の中で歌っていた。

9/13/2015

「トランスレーター」 と Terang Boelan

もう数年前になるけれど、兄が父の終戦直後の捕虜生活中に書いた日記を出版した。
私は出版された時に兄からその本を受け取ったが、なかなか読めなかった。
読めなかった理由は怖かったからだ。
父が若い頃に何をして、何を考え、どういう風に生きていたのかを知ることはどうしても
今の自分と対比してしまうだろうことが予想できた。
私と父とは違う人間だけれど、どこか同じような考え方をしていたのではないだろうか。
父が自分と違った考えをしていたことよりも自分と同じような考え方をしていたことが
怖かった。



その本をやっと読んだ。
父の日記の文章は淡々としていた。
しかしその中に父の感情が溢れていた。
父の声が聞こえてきそうで懐かしい感じがした。
父がイギリス軍の捕虜として生きていた頃の年齢は私が札幌から東京に戻った頃の
年齢だった。
父は英語と日本語の翻訳と通訳をしていたようだ。
日記を読むとたびたび印刷用の用紙を調達するのに苦労したことが出てくる。
当然イギリス兵と入手するためのやり取りを父はしていたのだろう。

私が子供の頃、父は英語で何か話したことがあったろうか。
あまりはっきり思い出せないが、わずかな記憶では父は英語の単語を一つずつ
はっきりと言っていたように思う。
テレビを見ていてニュースなどで英文が流れるとその文章を茨城弁で直訳して
いたこともあった。

私は一度だけ仕事でシンガポールに行ったことがあった。
国際展示場で展示された機械の技術的説明が必要なときだけ説明するだけの
仕事だった。その時泊まったホテルのあった場所は父がいた収容所からそれほど
遠くなかったことを知った。

日記の終盤1947年7月27日はこんな風に書かれていた。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------
  今日は日曜日。晴天なり。一日、休息を取る。正午頃十八名の日本人が、M.P.に
 捕らわれてキャンプに来る。今後の注意を約して事なきを得。夜、床屋に赴き、
 田島、関根と快談す。話は内地のこと、現在作業隊生活のことである。
  夜は月はさんさんとゴム林に照り、スマトラの月を思い出す。テラン・ボエラン
 [Teran Boelan]の懐かしきメロディー、懐かしかりきパングカラン。スマトラも今は
 独立戦争で風雲急なものがあるだろう。タクシーはどうしたかな。街のマーケットは?
 忘れ難きものあり。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------
このTeran Boelanという曲はどんな曲だろうと思った。
ひょっとして父はよく歌を口ずさんでいたので、聞き覚えているかもしれない。
そう思って探してみた。
こんな曲だった。



なにか聴いたことがあるような気もするが、ありそうなメロディーのような気もする。
なにかマレーシア国家と同じメロディーだとか。
また日本でも雪村いずみがレコードを出していたところを見ると、この歌は南洋に行って
いたひとにとっては懐かしい歌だったのだろう。

9/12/2015

Utah, This Is The Place again

以前にもこの歌を貼り付けたのだけれど、いつのまにか元のビデオが消されていた。
なぜだろう?
確かUtahの記念祝典で演奏されたものだったと思う。
あれを保存しておくのだった、と今になって思う。
この歌は他の合唱団もYouTubeに載せているけれど、あの演奏が最高だった。
タイトルも詳細も忘れてしまって残っていない。
確か指揮者は日系の人だった。名前が日本名だったから。
あの合唱が他と違うところは途中のヴァースを独唱の女の子一人が歌い上げて
いることだ。その声が抜群に良い。
どこかに映像が残っていないかと2年前に使っていたコンピュータを調べたら音声だけが
残っていた。これは私が自分の演奏をするときにMTRに移すためにろく音したものだ。
しかし、残念ながらこれはmonoralで録音されていた。

その女の子の独唱は0:56と2:09のところ。


私の演奏もYouTubeにアップしているのだけれど、ぐちゃぐちゃなので
途中からそのあたりを少し。
私は別にUtah州にはまったく関係していないし、モルモン教徒でもない。
ただ友人が一人住んでいるだけだ。

 
 

9/05/2015

A cat named Sloopy Rod Mckuen ロッド・マッケンの「スルーピーという名の猫」 

ロッド・マッケンで後悔してることは、札幌から東京に帰る時に何冊もあった彼の本を
全部古本屋に売ってしまったことだ。
その中にはアメリカに行った時に買った詩集3冊も入っていた。
まあ、また 米amazonで買えないこともないのだが、面倒だ。

スルーピーの詩は彼のライブ版でも朗読していた。ストリングスをバックに。
当時聴いた時は断片的にしかわからなかった。
でも亡くした愛猫のことだということはわかった。
その詩を改めて読んでみた。
初めてわかったことは彼が猫を失った、というか彼が猫を死なせてしまった理由だ。
自分の猫だったら謝っても謝りきれないだろうと思う。

訳は適当だけどこんな感じだと思う。
間違いに気づいたらお前達が直せばいい。


A cat named Sloopy
「スルーピーという名の猫」
ロッド・マッケン

しばらく前のことになるけれど

スルーピーが知る大地は彼女の砂箱だけだった。
55番街の部屋々が彼女の領域だった。
毎晩彼女はアボカドプラントの間に座って
私の帰りを待っていた。
(私の腕はレバーの缶詰が目一杯と愛がいっぱいだった)
私たちは夜まで話しをして、それで満足だった。
でも何かが恋しかった
彼女は知らなかった地面を
私は走ることのできる丘を
(草が茂ってるうちに)

スルーピーはカウボーイの猫のはずだった
走り回る草原があり、
リノリウムの床ではなく
それに本物の生きたねずみ、
彼女自身以外、誰にも頼ることもなく

私はそれを彼女には言わずに心の中で言っていたのだけれど
私はミッドナイトカウボーイだった
想像の馬に乗って42番外を歩いていた
見知らぬ人と一緒に出かけて行き
1時間のカーボーイ人生を生きていた
でもいつでも私を一番愛しているスルーピーの元に帰ってきた

12回の夏を
私たちは世界を相手に生きてきた
島の上の島で
彼女はゴロゴロと喉を鳴らし私を心地よくした
私は笑顔で彼女を太らせた
私たちは信頼関係を増していった
海辺も蝶々も必要無しに

私にはベンという友達がいた
彼はまるでルオーの絵の男のようで、建物を塗装していた
しかし彼は逝ってしまった
私の笑いはリリアンを疲れさせた
しばらくして
彼女はただ微笑むだけの男をみつけた
でもスルーピーだけはずっと私の傍にいてくれた


1959年
老人が犬を何匹か連れて歩いていた
ある犬はあまりにせわしなく歩くので
柔らかい灰色の雪の上にピンクの足跡を残していた
毛皮を着込んだ婦人達
エレガントになにげなく
雹をかぶったタクシーがその人達を乗せて
ブロックを回って戻って行く

12月が来るというのに
愛を求めない人はいないいだろう
子供達でさえサンタクロースにお祈りするのに
私には家に私の愛するものがいた
でも、私はまる一日家を留守にした
そして、その次の日も

彼らは私が狂ったと思ったはずだ。
スルーピー
スルーピー
と叫んでいた
雪が降ってきて私の周りに積もっていた
私は狂っていた
約束の時間よりも1分でも早く出かけようとしていた
私はゴールデンカウボーイだったらなと思った
彼女を窓枠から拾い上げて
優しくサドルバッグに入れて
アリゾナまで乗って行って
彼女はトカゲを追いかけまわす
今はたぶんサボテンの中にいる
辛いけど自由だ
私も辛い
そしてもう自由な人間じゃない

昔そんな時があった
ニューヨークのジャングルの中の木の中で
私が世に出る前に
他の種類の愛を探してるうちに
スルーピーという名前の猫以外私を独占したことがない
振り返ってみると
たぶん彼女は私に愛を返してくれたただ一人の「人間」だったと思う


A Cat Named Sloopy is from the book “Listen To The Warm” published by Random House.
Copyright Rod McKuen 1963-1967.

9/03/2015

初夏 (ふきのとう)

「ふきのとう」の「初夏」は私が札幌に赴任したのとちょうど同じ月にリリースされた。
考えてみるとこれほど懐かしくまた心象風景としてこれほどうまく札幌を描いた
歌も無いように思う。

    噴水の前で 記念写真を
    撮っているのは 新婚さんかな
    僕は座って それを見ている
    鳩はつついてる とうきびの殻を
    夏の初めの昼下がりは
    とても馴染めず淋しくなる

赴任した頃はよく大通りの地下に車を停めて公園を歩いた。
上の歌詞はその時の情景そのままだ。
何一つ違わない。
夏になると内地からの旅行者が増える。
明らかに東京から来た人達が写真を撮ったり、
ふざけあっていたりする。
私は「僕も東京から来たんだよ」と心の中で言いながら。
彼らはまた東京に帰るんだな。
と淋しい感じがした。

    時計台を見て たむろしている
    大きなリュックの 黒いかに族
    僕は通り過ぎ 見ないふりして
    道を聞かぬよう 声をかけぬよう

東京からフェリーに積んだ自分の車が戻って来て、最初に行ったのが
時計台だった。
夜中だった。
途中パトカーに静止させられ、「時計台を見に行くところ」
と言ったら、すんなり「単身かい?気をつけて」と行ってしまった。
時計台について、しばらくすると鐘が鳴った。
余韻の無いちょっと鋭い音だった。
夜中の街に響いていた。
その音を聴いたら無償に淋しくなったて、そのまま朝まで
支笏湖の方まで走った。

    地下街はいつも 都会の顔して
    狸小路を 田舎扱い
    僕は地下鉄の 電車を待っている
    センチメンタルに 浸ったふりして

狸小路と地下街の、この感じは住んでみないとわからないだろう。
地下街は当時(1975年頃)、歩いていると東京を思い出した。
擬似東京体験だった。
通路は明るく、白く、にぎやかだった。
テレビ塔の下の紀伊国屋から4丁目の方にあった本屋、
それからパルコに入って楽器屋と本屋、
いつもそのあたりを用も無いのに歩いた。

地下鉄はたまにしか乗らなかった。
乗った時のことはあまり覚えていないが、
大通りから西28丁目まで乗って、吹雪の中を宮の森まで帰ったことは
何度もあった。
当時、自動改札は札幌の地下鉄が最初だったのではないだろうか。
また車輪はタイヤで音も静かだった。
ただ、網棚が無かった。今もそうだろうか?
カバンを頭の上に落とされた人を何人も見たことがある。

そうだ会社から街に買い物に行く時は地下鉄だったはずだ。
西20丁目から乗って大通りあたりまで。
あれは決して「センチメンタルに浸った振り」ではなかった。
なぜかわからない淋しさがあった。
あの音かもしれない。
あの地下鉄の警笛。



8/26/2015

都ぞ彌生 北海道大学 恵迪寮 第6回寮歌

北海道大学の恵迪寮には一度行ったことがある。
前にも書いたけれど北大の北先生の紹介で行った英会話の集まりで知り合った北大の大学院生(名前を忘れてしまった。)と一緒に行った。彼の部屋でしばらく話をしたと思う。
私は多分車だったから車で北大の中に入ったのだろう。
彼は熱伝導に関する何か研究をしていた。鍋の底について何か雑談をしたのを覚えている。
あれは1975年の秋だったと思う。
彼の部屋にはストーブがついていたから。

恵迪寮の寮歌というと「都ぞ彌生」が有名だけれど、明治40年から毎年寮歌が作られている。
都ぞ彌生はその6回目(1912年)の寮歌だ。
前にも書いたけれど、小沼が言うには「青函連絡船が函館に着くときにこの歌が流れる。」
と言うのだが青函連絡船にも青函フェリーにも何十回と乗ったけれど、一度も聞いていない。
ほんとうにそんなことがあったのだろうか。

小沼はよくこの歌を口ずさんでいた。
しかし私はその前にこの歌を知っていた。
それは父がよく寮歌を歌っていたからだ。
自分の学校の寮歌だけでなく他の学校の歌も歌っていた。
それで覚えてしまったのだろう。
そういえば小沼も色々な寮歌・校歌を知っていた。

都ぞ彌生はYouTubeでOBか在学生か知らないがいくつか聴くことができる。
去年(2014年)あたりまでは加藤登紀子のものもあったが著作権うんぬんで消されてしまった。
私個人は加藤登紀子のバージョンが好きだ。
普通に現代風の歌い方だ。
特に「星影冴かに光れる北を」のところのオーケストラアレンジが好きだ。




まだ加藤登紀子のビデオがあった頃のコメント書き込みには、加藤の歌い方を
批判するものがいくつかあった。
詳しくは覚えていないが、
1.「尽きせぬ奢に」 のところのメロディーが違う。
2.「夢こそ・一時」 「燃えなん・我胸」 「星影・冴かに」のところの・は間を開けずに歌う
  のが正しい。
とかだったと思う。
1.は「ぬ」を下げるかどうかだが、下げた方が寮歌っぽいと思う。楽譜を知らずに言ってますが。
2.も同じく 間髪居れずに歌う方が寮歌っぽいと思う。 ただこの部分は間が無い分
  その後(ひと時~~)を長く延ばすようだ。

私個人は応援歌のような歌い方は好きじゃない。
加藤登紀子の歌もちょっと綺麗過ぎる感じがする。



8/25/2015

松山君のこと

松山君は私が札幌から東京に戻って最初の会社で知り合った人だ。
その会社はA社と言った。
A社は秋葉原の今の秋月電子のある隣のビルにあった。
A社は確か当時まだ20代だったと思うがNさんという人が社長だった。
その頃はあのあたりは電子部品を扱うお店、会社がほとんどだった。
その電子部品を扱うお店の店主の息子さんだったと思う。

A社はその頃はパソコンを使った画像入力・処理装置を作って販売していた。
パソコンはPC-8001,Apple-II,MZ-80などの8ビットパソコンだった。
その頃はビデオ信号をパソコンに入力するインターフェイスはほとんど無く、非常に高額
(250万円~500万円以上)な画像処理装置(単独で使用)があるのみだった。
A社それを50万円前後のパーソナルな装置を開発していた。最初の画像処理装置は
Mー4000と言っただろうか?・・・名前を忘れてしまったが、4ビットのA/Dコンバータを使ってビデオ信号をデジタル化していた。256×256画素の16階調だった。
A/DコンバータはアメリカのTRW社のもので、大変高価だった。それで4ビットタイプの装置の
D/Aコンバートは抵抗アレイで行っていた。
その後6ビットタイプ、8ビットタイプのものも開発した。8ビットタイプのTRWのADは確か60万円したと思う。今のCPU素子の2倍くらいの大きさで発熱がすごかった。
8ビットタイプのものは画素が512×512あった。当時はDRAMの容量も小さく、またFPGAも無かったので基板のほとんどはメモリー素子とそれを駆動するディスクリートのTTL素子だった。
その開発をした人はツボイ君という人だった。
ツボイ君は電子関係パソコン関係のことに詳しく、また英語も普通に話せた。確か後の奥さんは
キーボードを弾く人で音楽にも詳しかった。

それで松山君だけれど、松山君は当時確か22歳くらいだったのではないだろうか。
ツボイ君と同じく電子回路とパソコンに詳しかった。確か元はテレビゲームの基板を作っていたの
ではなかったろうか。
ツボイ君(当時は)はちょっと話しづらかったけれど、松山君は気さくな人だった。若いのでちょっと横柄なところはあったけれど、そのころ営業をしていた私を助けてくれた。
当時まともなマニュアルが付いていなかったので、私がBASICで試験用のソフトを作ってそれを
マニュアルに載せた。それとインターフェイスの回路や信号表なども載せた。それらの技術資料は
ほとんど松山君が作ってくれた。
それで営業に行く時も非常に助かった。

松山君とはお昼はいつも一緒に食べに行った。
だいたいが、日通ビルの裏の姉妹でやっていたトンカツ屋か、そのすぐ近くのキッチンジロー
か、すこし離れた中華料理店。あとはどこへ行ったろう?
そして食べた後は日通ビル脇のミスタードーナツに行ってコーヒーとドーナツを食べた。
あのミスタードーナツはまだあるだろうか。
まだあるとするともう35年以上あそこで営業してることになる。
そうだ、ドーナツのあとはジャンク屋を二人で歩いた。
用も無いものをたくさん買い込んだ。

その後、色々あり、松山君と私を含め数人は別の会社を作ることになった。
その会社もしばらくして、いろいろあり、やめてしまった。

A社の後、松山君と一緒に仕事したのは、画像入力装置の入力部の回路がトランジスタによる回路だったものを私が高速OP-Ampを使ってクランプ回路を作りビデオ信号のレベルを安定化した。
また出力回路も変更した。その頃はS-RAMも使えるものが出てきてS-RAMを使ったものも作ったように思う。
S-RAMはD-RAMよりも容量が小さかったのでさらに基盤のメモリー部分は大きかった。

その後、松山君とは仲が悪くなった。
それは、ほとんど私のせいだ。
松山君にはあやまりたいことがたくさんある。

8/24/2015

Foothill Flip ?

今、思い出した。
コマツがアメリカに行ってしばらくは彼はFoothill Flipというコピーペーパーの冊子を送ってきていた。この名前もうろ覚えなのだが確かこんな名前だった。
私の3回目の引越しのあたりまではそれを全部持っていた。
その後の引越しで無くなったようだ。
あれはA3の用紙に写真と文字で彼のアメリカ生活のことなどが書かれていたと思う。
それを送ってもらってこちらからは手紙をまた送っていた。

まあ、今考えてみるとあれは非常に応答の遅いSNSのようなものだったのだなと思う。

8/17/2015

コマツのバンジョーのこと The banjo William brought to me

コマツのバンジョーのことを書こう。

私は自分のバンジョーを持っていただろうか。
高校生の頃にバンジョーを練習した記憶がある。
あのバンジョーはたぶん降矢が持っていたものだろう。
それを借りて練習したのかもしれない。
いや、いや、いつも降矢はバンジョーを弾いて、私がギターで伴奏していた。
だから、バンジョーは貸さないだろう。
あの頃、バンジョーを買ったろうか?
そういえば、ピカピカに光ったリムのネジを締めている記憶が少しある。
あるが、それを後で売ったり、誰かにあげた記憶がない。
だから自分のバンジョーを持っていた記憶が無い。

その後大学に入って先輩達とキングストントリオのバンドを作った時には
私はバンジョーが弾けていた。フィンガーもフレーリングもできた。
だからそれ以前にバンジョーを練習していたはずだ。
その時は、ベガのロングネックを借りて弾いていた。

そのバンドをやめてから、コマツと知り合った。
その話の一部は前にも書いている。
初めてコマツと会った日のことを思い出そう。

その日は私は世田谷にあった廻沢キャンパス(理工学部)からシャトルバスで
渋谷キャンパスに向かった。
家からギターを持ってきていた。その頃のギターは神田カワセ楽器のBillyだった。
渋谷キャンパスでバスを降り、まっすぐ部室に向かった。
部室は学生会館の地下の長い廊下に沿って何室もあったが、その一番奥にあった。
部室に入って左半分(?)が「古都探索会」の部室で右側がASFの部室だった。

「古都探索会」だが、その後その部長になったのが小沼だった。
これは偶然だが、よく出来た偶然だと思う。

ASFの部室は奥側に長椅子が置いてありその対面にも椅子があったように思う。
その手前に皆のギターを置いていたように思う。
真ん中に4、5人くらいが立てるスペースがあったように思う。
その日はいつもの様にキタローと松尾と朝倉、佐藤あたりがクリームとかの歌をやっていたように思う。
・・・というかそういうシーンしか浮かばない。

私は奥の長椅子に座ってギターを抱えていた。
右にはタヌがいて、彼らの演奏を眺めていた。あの独特の笑い方で笑っていた。
たぶん、そんなことをしていたところにコマツが現れた。
ドアを開けてやたら目が輝いている男が入ってきた。
彼はアメリカとのハーフだったけれど、私は初めて会った時、そんな印象が無かった。
でも彼を知ってる人から聞くと、「彼は最初から外人だったよ」という人が多い。
実のところ私は彼がハーフだと感じたことがない。

それから彼は部室に入ってきて、皆に愛嬌を振りまきながら何かしゃべっていたと思う。
声はでかかった。
しばらくして(だと思うけれど)私の前に座って、彼は何か歌を歌った。
それが何だったのか思い出せないが、一緒に何かやったような気がする。

学校では、学校の仲間では、彼は小松沢あるいはコマツだった。
それでずっと通っていた。
彼にはコマツではない世界があるのを知ったのはだいぶ後だった。
つまり大学以前は英語名で通っていたわけだ。

そんなコマツと一緒にバンドをやるようになって、コマツはバンジョーを持っていた。
小ぶりの裏蓋の無い素朴な5弦バンジョーだ。
コマツはそのバンジョーを私に貸してくれた。
それからはステージでもほとんどそのバンジョーを使っていた。
金属のリム部が薄かったので普通のバンジョーに比べると軽かった。そのため
持ち運びが楽だった。
音は決していいとは思えなかったけれど、それが返ってマウンテン調のフレーリングを
やると実にいい音がした。あれでたぶんヘッドを何か動物の皮にしたらけっこう味が
出たのではないだろうか。

そのバンジョーはその後、コマツがアメリカに行き、私が札幌に一緒に持って行った。
時々車を海岸脇に止めて弾いたりした。
そうだ、だからその頃はまだフレーリングもできたはずだ。

それから6年後、私が札幌を後にして東京に戻った時に、そのバンジョーを会社のロッカー
に入れっぱなしにしていたことがわかった。
その会社が数年後引越しした時に、当時の友達の女性がそれを預かっていてくれた。
それから20数年年経ってからだろうか、その女性がバンジョーを小樽のモチに渡してくれた。
だからそのバンジョーは今、小樽にある。
渡してくれた女性はそれからしばらくして癌で亡くなった。
そのことも前にここに書いている。

ところで、元々コマツはあのバンジョーをどうやって手にいれたのだろう?


<追記>
本人から電話があった。
あのバンジョーは彼のお父さんのものだったとか。












8/15/2015

小沼のこと

同い年の友達がいない、と書いたけれど、いた。
小沼だ。
小沼とは大学の5年間一緒だった。
もっとも彼は大学院に行ったので、たぶん7,8年いたのだろう。
小沼は都立三鷹高校だった。
三鷹に住んでいた私は都立神代高校だった。
基本的に彼の方が頭が良かった。
あるいは彼の方が論理的思考に長けていた。

小沼は写真と山登りが趣味だった。
他に何の趣味があったのか知らない。
横田基地の近くに住んでいた。
学校の友人と彼の家に行ったことがある。
彼のお父さんがいた。
お父さんは紙に何か問題を書いて私達に示した。
確か「・・・これの答えがわかるかい?」とか言い残して消えた。
あれは数学の問題だっただろうか、ちょっと記憶が確かではないが、
少し考えただけで答えが出そうな問題だったけれど、
考えてみるとすごく難しい問題だったような・・・・

と、書いていて思い出した。
魚の焼き網のような回路網を描いて、「このそれぞれの抵抗素子に
流れる電流を出せるか?」
だった。なぜか今急に思い出した。
その時は計算できなかった。

彼の叔父さんには海法泰治さんという人がいて確か雫石事故の裁判で
独自の解釈を行っていたように思う。

彼は確かNECの関連会社の***アネルバとかいう会社に就職した。そしてドイツの
どこかの研究所に研修でずっと行っていて、そのままドイツに住むことになったとか。
彼の奥さんは確かピアノの先生で生徒さんがたくさんいたように思う。
小沼は学生の時もドイツ語が得意だった。

その後、彼はMax Planck Institute for Metals Research, Stuttgart にいた。
ということを私の先生からお聞きした。
どうしているだろう?と思ってマックスプランクのEメールが公開されていたドイツ人と
思われる(名前が・・・)研究員の人にメールを書いた。
今思うとよく書いたなと思うけれど、「小沼という日本人の研究員を知っていたら
私のアドレスにメールをくれるように伝えていただけないでしょうか?」
とかなんとか書いたと思う。

どうせメールは来ないだろうと思っていたけれど、1週間後くらいだったろうか、
小沼からメールが来た。
ローマ字で書かれていた。
それから何度かメールを交換したと思う。
そのあと会社が引っ越したりでそのままになってしまった。

今もマックスプランクにいるのだろうか?
まだドイツにいるのだろうか?
あるいは日本に帰っているのだろうか。

今会うと30年ぶりくらいになるが、これだけははっきりしている。
もう一度会った時彼はこう言うだろう。
「なんだよ、どうしたんだよ?」と
まるで数日前にも会ったように。










8/13/2015

真夏にクリスマス Christmas in summer

代官山にクリスマスカンパニーができるずっと前のこと(だと思う)けれど、
ラジオ番組で8月にクリスマス特集をやった局があった。
あれはTBSか文化放送かニッポン放送か忘れたけれど、
当時としてはすごく画期的な冗談だと思った。
日本もこういう冗談が通じるようになってきたのか、と思った。
その日の放送はいまでも少し覚えている。

冗談と言えば、タモリの冗談も画期的だった。
あの手の冗談はたぶんその前の時代では通じなかったのでは、と思う。
中州産業大学の教授もオリジナル落語も面白かった。

その後出てきたスネークマンショーも抜群に面白かった。
あの時代を過ごしてきた人は「シンナーに気をつけて壁塗んな」だけで
笑いが起きる。
面白い時代だった。

8/11/2015

コメット・イケヤ  Comet Ikeya


1966年のことを調べていたら「コメットイケヤ」のことが書かれていた。
当時NHK・FMで放送されたラジオドラマだ。
ドラマはステレオ録音の効果を最大に活かしたつくりをしていた。
YouTubeに2つのビデオがあるが、1つはモノラル録音
https://www.youtube.com/watch?v=5n7c5h75Ae8
でもうひとつはステレオ録音だが、
https://www.youtube.com/watch?v=gx9jiA24Zeg
両者ともテープのねじれやヘッドずれで完璧な音ではない。
しかし、ステレオ録音の方はまだ聞ける。
元もとの音の状態を完全ではないけれど、再現できている。
私もこの放送をテープに録音していた。そのテープがみつからない。
あるいは妹のところにあるのかもしれない。

この放送で一番記憶に残っていたのは、途中で男と少女が歌う
フランス語の子守唄Au clair de la lune だった。
この歌をいつか歌いたいと思った。
途中フランス語独特の発音がある。
それを歌えたらいいな、と思った。
高校1年生だった。

今、わかったけれど世界最古の録音された音は1860年4月9日に
フランスの実験的な音声記録装置に記録された女性の歌う
この歌だそうだ。エジソンよりも17年早い。

Au clair de la lune
 Au clair de la lune, mon ami Pierrot
 Prete-moi ta plume, pour ecrire un mot.
 Ma chandelle est morte, je n'ai plus de feu.
 Ouvre-moi ta porte, pour l'amour de Dieu.
 Au clair de la lune, Pierrot repondit :
 _ Je n'ai pas de plume, je suis dans mon lit.
 Va chez la voisine, je crois qu'elle y est
 Car dans sa cuisine, on bat le briquet.
 Au clair de la lune, l'aimable lubin
 Frappe chez la brune, elle repond soudain
 _ Qui frappe de la sorte ?, il dit a son tour
 _ Ouvrez votre porte pour le Dieu d'Amour.
 Au clair de la lune, on n'y voit qu'un peu
 On chercha la plume, on chercha du feu
 En cherchant d'la sorte je n'sais c'qu'on trouva
 Mais je sais qu'la porte sur eux se ferma.

8/10/2015

1965年~1970年頃のフォークソング American folk songs in Japan 1965

忘れそうなことなので書いておこう。
1965年というと中学生か高校生の頃だ。
最初に聴いたアメリカンフォークソングは何だったろう?
その頃は兄が聴いていたのを又聞きしていた。だから兄にきいてみるのが手っ取り早いの
だろうけれど、そうなると自分の記憶ではなくなってしまうので、思い出してみよう。

古そうなのでは、Kingston Trioの「Tom Dooly」だろうか。あるいはThe Highwaymenの
「漕げよマイケル Michael Row the boat ashore」あたりか。今読むとおかしな名前だ。
「漕げよ!マイケル」「やだよ!」「なんだよ!漕げよ!」って感じだ。
マイケルは在るであろう岸に向けてただひたすら漕いでいるだけなのに。
ほっといてやれよ、と思う。マイケルは今の自分だ。
それからPete SeagerのThis land is your landがあった。これはWoody Guthrieの曲だけれど、
ウッディ自身の歌がラジオで聴かれるようになったのはだいぶ後のように思う。

ラジオ(AM放送)でよく聴かれた曲はこのあたりの曲だと思う。
FM放送は東海大学が試験放送でステレオ放送を流していたけれど、この頃はクラシック
ばかり聴いていたせいか、FMでアメリカンフォークが流れたのは覚えていない。
60年も後期になるとブラザースフォーやPP&Mのコンサートをまるごと流していたことも
あったように思う。
テレビでも同様、PP&Mやブラザースフォーのコンサートを1時間番組で流していた。
あの頃ビデオデッキがあったらさぞかし貴重な録画ができたと思う。

70年前後は日本のフォークも盛んになってきたと同時に著作権の問題も起きてきた
ように思う。記憶にあるのは1972年のFM東海(か東京)の放送でPink Floydの東京公演
のThe Dark Side of the Moonを流したことがあった。その録音が残っているが、アナウンサーは
「これはいったいどこのバンドのなんという曲なんでしょうか・・・」と言っていた。

話を元に戻してフォークソングだけれど、評論家という人達がいた。
その人達の影響は強かった。
嘘も平気で言っていた。
Bob Dylanがエレキギターを持ってステージに上がって客からのブーイングに泣き泣き
ステージを降りた、とかいう話も当時は真実として語られていた。
誰が言ったか知らないが、その評論家の一人だ。
あとで映像を見たが客には大受けだった。
レコードには歌詞カードが必ず入っていたが、大嘘だった。
ほとんどでたらめに近い英語の歌詞もあった。

フォークソング歌集も出ていた。
アメリカ人でも知らなそうな古い歌が載った歌集もあった。
ギターコードが付いていたものもあるが、ほとんど大嘘だった。
当時まともな教則本として有名だったのがPete Seegerのバンジョー教則本だ。
ギターのことも少し書かれていた。
これはしかし教則本というよりも歴史書に近いようなものだったと記憶する。
フレーリングの類の弾き方やフィンガーピッキングの方法が楽譜と共に書かれていた。
この本はサイズが大きかった。あれは何サイズと言うのだろう?
A3とA4の中間くらいだったように思う。
その本にはブルーグラスバンジョーの弾き方はほとんど書かれていなかったように思う。
ブルーグラスバンジョーの教則本には東理夫のすばらしい本があった。
この本を最初からまじめにやっていくとかなり上達した。
特にスクラッグススタイルやドンレノスタイルやその当時の最新の弾き方が楽譜付きで
1曲全部紹介されていた。

ギターの方はPP&Mのギター教則本が出ていたと思う。・・・思う。
私は音楽雑誌についていた付録の教則本で練習した。
この教則本はすごかった。曲は有名なところは網羅していた。フィンガーピッキングも
きちんとした楽譜で出ていた。むしろきちんとしすぎて弾けないところもあった。
私のフィンガーピッキングは全部これで勉強したようなものだ。

PP&M以外のバンド、Brothers FourやKingston Trioなどは一応楽譜があった。アメリカの
出版社の楽譜だった。しかしコードも弾き方もほんとうだろうか?と思わせる内容だったと思う。
・・・あれでほんとうに弾けたのだろうか?
だいたいキーのままのコードで書かれていたから、カポ付きで書かれていたそのPP&Mの
教則本とは違い1カポのGで書けばいいものをG#から始まっていた。

そんな事情だったので、あの頃はみなレコードを聴いてとっていた。
それも当時の事情があって、すんなりとは行かなかった。
まずレコードプレーヤーの回転がいいかげん。
当時はほとんどアナログ制御だったので(クリスタルを使っていたとしても)聴いているうちに
微妙に回転数が変わってきた。
それに加えて音をとっているギターのチューニングも当時はチューナーというものは無く、
音叉か笛(ハーモニカの1音だけのやつ)で合わせていた。これがけっこういい加減。
なので微妙なコードはまず聞き取れなかった。
今だとCDとチューナーで合わせたギターは素晴らしく響きあうのがわかる。

それで最初に戻って、This Land is Your Landだけれど、これをみな歌っていた。
特に何も考えずfrom California to the NewYour island・・・だ。
当時の基本姿勢として、歌の内容はあまり考えない、というのがあったように思う。
反戦歌も古い民謡も外国の歌も同じように歌っていた。
たぶんPP&Mの日本公演の時が最初だと思うけれどThis Landの歌の時に日本の
地名を入れて歌った。From Okinawa to Hokkaidoと歌っていた。
それからだと思う。この歌を歌うときに皆意識し出したのは。
「ああ、これはアメリカの歌なんだ」と。
それからみなこのPP&M版の歌詞で歌ったように思う。
Mike Seegerの来日の時もその沖縄が入った歌詞だったように思う。

1965年~1970年頃の学校やアマチュアのコンサートは今考えるとひどいものだった。
・・・日本のフォークソングという流れも同時平行してあったのだけどね。オリジナルの歌を
歌い始めた日本人のフォークシンガーが同じ頃生まれていた。
どうもそれとは別の流れでアメリカン(外国)フォークはあったように思う。
PP&M,Kingston Trio,Brothers Four,Bob Dlylan,Donovan,Joan Baez,,,,,etc.
このあたりのバンド、グループのファンの人達はどうも吉田拓郎、かぐや姫などの流れ
とは別のように思う。

それでアメリカンフォークではあったのだけど、誰もが英語に堪能であるわけではなく、
むしろあまり得意でない人が多かったように思う。
当時色々な学校の文化祭や学園祭に行ったけれど、ほんとにひどい英語で歌っている
人達もいた。ほとんどカタカナで書かれた歌詞カードをそのまま歌っていた。
あるいは英語の発音がわからないからローマ字読みで歌っている人達もいた。
今でもはっきり覚えているのはある学校の学園祭でブラザーズフォーの「北京の55日」
を歌っていたグループだ。「ポネ、ポネポネポネ・・」と歌っていた。
その前になんで北京の55日だ?と、今思うけれど。当時は流行っていたのだろう。

その頃の流れで今もやってる人達もいるわけで、当時のまま演奏し歌っている。
各地のライブスポットでは今でもそれが聴ける。いや、ポネポネが聴けるかどうかは
わからないけれど、似たような英語発音は聴ける。
最近その手のライブに一日いた。
うまい人もいるし、そうでない人もいる。
ポリシーをもった人もいるし、そうでない人もいる。
時間が止まっているようでもあり、
確実に時間においていかれているようでもある。
しかし、これが我々の時間の先端なのだと思う。

8/08/2015

Disneyland TV series 「テレビ番組ディズニーランド」

「ディズニーランド」というテレビ番組があった。
はっきりは記憶していないが、「冒険の国」「未来の国」「おとぎの国」という
設定で様々な内容の番組をやっていた。
たぶんもう一度見れば思い出すのだろうけど、ひとつだけとてもよく覚えて
いるお話がある。それはBeethovenの物語だった。
私は中学生だった。
その番組ではベートーヴェンの伝記とともにバックに音楽が流れていた。
不思議なことにそのメロディーをほとんど知っていた。
そのころテープレコーダー(オープンリール)があって、それでテレビやラジオ
を録音して楽しんでいた。ディズニーランドのその番組も録音していた。
(今は残念ながら残っていない、BASFのテープで青いケースに入れていた)
それでそのテープを何度も聞いてほとんど覚えてしまった。

ベートーヴェンを聞くようになったのはそれからだ。
有名な曲、それほど有名でない曲ほとんどを聴いた。

今でもはっきり覚えているのはベートーヴェンがどこかの宮殿のような
建物の階段を降りてくるシーンで流れていたピアノ協奏曲第5番の第一楽章だ。
今でもその曲を聴くとテレビのシーンを思い出す。

たぶんあのシリーズでは他の音楽家もやったと思う。
でもベートーヴェン以外全く覚えていない。

8/07/2015

札幌のパルコで買った本

ひとつ思い出したので忘れないうちに書いておこう。

札幌のパルコで買った本をずっと持っていた。それを20年ほど前にヤフオクで売った。
その本を思い出した。
稲垣足穂の「月光少年」と(違った!月球儀少年)という本だった。(確か)
今検索しても出てこない。
でも、確かこのタイトルだったと思うのだが。
B5かA4くらいの、厚さが4,5センチはあった大きな本だった。
定価が¥10800だったように思う。¥9800だったかもしれない。
(この値段も怪しい)
どっちかだと思う。
その写真も残っていないけれど、群青色の本だった。
こまかな字で稲垣足穂のエッセイがつまっていた。

思い出したのは、以前書いた「偶然とは思えぬ偶然」の時に書いた
大倉山記念館のことを調べていて、映画「1999年の夏休み」を思い至ったからだ。
あの映画、地味に人気があるようだけれど、みなわかっているのか?
と思う。
あの話の原作者、萩尾望都が男であったならわかるのだが、女性があの話を書いた
というのはどういう気持ちからなのだろう。

あの話は、ひょっとすると作った側の思いとはまったく別の思いを受けて側が持って
いるのではないかとさえ思える。

Daydream Believer everyday  毎日、デイドリームビリーバー

セブンイレブンに行くとこの曲がずっとかかっている。
テレビを見ると、たぶん、一週間に1回はこの曲を聞く。
世の中の40%くらいの人がこの歌を知ってそうだ。
そのうちの40%くらいの人は歌のタイトルを知らなそうだ。
残りの40%くらいの人はこれはモンキーズのオリジナルだと思ってそうだ。
残り60%のうち40%くらいは忌野清志郎が作ったと思ってそうだ。

Johnさんが亡くなった時が68歳だった。
もうじきその歳になる。
あと数年。
でもこの歌はまだまだずっと歌い継がれて行きそうだ。

8/06/2015

花はどこへ行ったの?はどこから来たの?(2)

知人に早稲田の人がいるのでその人に聞いてみた。
歌をやってる人なので話が早かった。
ザリガニーズは先輩にあたるそうだ。
それで直接ザリガニーズの人に聞いてくれたそうだ。
しかし、オオタさんのことはわからず、「あの歌詞はもっと前からあった」
ということだった。
そうなると、もう調べる手立てが無い。

たぶん、あの当時にピートシーガの歌を聞いて日本語歌詞にした人が
いたのだろう。
その後、あれほど皆に歌われている歌詞なのに、オオタタカシという
名前しか表に出ていない。
いったいどういう人なのだろう?

8/03/2015

ハスカップ酒

「ハマナスはバラ科なんだよ・・・」
初めて北海道に行った時、小沼が言っていた。
あれは8月だった。
暑い東京を後にまだ高速道路ができていない国道4号をひたすら走った。

「ハマナスはバラ科なんだよ、だからとげがある」
サロマ湖の環状になった先端の砂の道に車を停めてハマナスの花を見ていた。
「別に特別きれいな花じゃない」
その頃あの歌が流行っていた。


「ハスカップのお酒があるんですよ・・・」
友人が言った。
あれは確か釧路だった。
小沼じゃない。

そのハスカップという言葉の響きが良かった。
なぜだろう?
すごく北海道っぽい語感がした。
見たこともないのに。

ハスカップがどんな植物か知らない。
だから頭の中ではハマナスのような印象を持っていた。

「ハスカップのお酒を送ったよ」
友人が言った。
あれは深川のアパートだった。
四角い青い瓶の小ぶりのお酒だった。

私はお酒を飲まない。
すっぱかった。

8/01/2015

花はどこへ行ったの?はどこから来たの?Where did Japanese "Where have all the flowers gone?" lyric come from?

花はどこへ行ったの?はどこから来たの?
Where did Japanese "Where have all the flowers gone?" come from?
Who is Takashi Ohta?
and Where has he gone?

以前NHKで放送された1時間半番組の「花はどこへ行った、静かなる反戦の祈り」
がYouTubeにあったのでもう一度見てみた。
良く出来た番組だと思った。
John Stewartもコメントを言っていた。彼らがあの歌をヒットさせた頃には反戦
の意味はなかったとか言っていた。確かにそうでもなければ大統領の前では歌えない
だろう。
それはいいのだけど、日本語のあの歌詞はいったい誰が書いたのだろう?
それについては説明されていない。
ネットで検索してみると「おおたたかし作詞(安井かずみ補作)」とある。
安井かずみはいいとして、この”おおたたかし”氏とは誰だろう?
検索しても出てこない。
どうやらザ・リガニーズがおおたたかし氏の歌詞で歌ったのが日本で最初の日本語
によるこの歌だったらしい。
それではおおたたかしという人はザ・リガニーズのメンバーだったのだろうか?
と思い、ザ・リガニーズを調べてもメンバーに”おおた”という人はいない。
実際問題、これ以上の情報が出てこない。

1960年から1970年頃が日本での外国フォークソングが流行った頃だと思うけれど、
英語歌詞で歌う人と日本語歌詞で歌う人は半々くらいだったのではないだろうか?
当時いろいろなアマチュアコンサートに行ったけれど、日本語で歌われていた
ことが多かったような気がする。
おおたさんの日本語歌詞については今になっていろいろ言ってる人がいるけれど、
何か文句のある人は1965年に戻って言ってきてほしいですね。
ショーロホフもいいけれど、おおたさんを探してほしい。

7/17/2015

It came upon a midnight clear

日本の唱歌を最近歌っているのだけれど、
ちょっと前に「灯台守」もいいな、と思ってスタジオで録音した。
それからしばらくして、YouTubeでクリスマスソングをいろいろ聴いていた。
真夏にクリスマスソングもいいと思った。
Daryl Hallの家で録音されたクリスマス音楽があって、それがとても良かった。
John Oatesと一緒に歌っているのだけれど、特に"It came upon a midnight clear"がいいと思った。
コードを取って歌えるようにした。
それまで気がつかなかったのだけれど、今日「灯台守」はどこの民謡だったろう?と思って
調べたら、それが実にこの歌だった。
偶然だったのだろうか?
それとも記憶のどこかで覚えていたのだろうか?

7/05/2015

Farthe Along ...we will...

思い出した。
The Byrdsの洋盤を買ったのは確か御茶ノ水のハーモニーだった。
買って家に帰って聴いてみたら、レコードの裏面に大きな歪があって、取り替えてもらおう
とお店に持って行ったら在庫が無かった。
それでじゃあ他のレコードと交換して、ということで選んだのがフローティングハウスバンドのレコードだった。何も無しにフローティングハウスバンドを選ぶわけがない。

それはいいのだけど、その後バーズのレコードが入ったよ、という連絡を受けていたのだけれど、
買いに行かなかった。それでそうこうしているうちに札幌に行ってしまい、そのレコードを買いそびれてしまった。FMで録音した音が残っていて、あのレコードを欲しいと思っていたけれど、お店では見つけられなかった。
それで数十年が経ってしまい、結局入手できなかったのだけれど、友人宅に行った時に彼がLPを持っていて、「そうかそれじゃあ、これあげる」と言ってくれた。
もうすでにCDが出ている時代だったけれど、LPは嬉しかった。

この曲はすごくアコースティックな雰囲気で好きだ。
コーラスもきれいだ。

もうだんだんこの世の中にいられる時間も後半に入っているけれど、
宇宙の仕組みや、人類がどこまで進化するのか、あるいは
まだわかっていないもろもろのことなど、
ずっと先に我々は知るのだろうか?
たぶん歌のように私がそれを知るのは天国に行ってからだろう。

Farther along we'll know all about it
Farther along we'll understand why
Cheer up my brother live in the sunshine
We'll understand it all by and by

7/03/2015

Johnさんのこと

ジョンさんは一番古いメール友達の1人だ。
最初にメールをくれたのは私が以前やっていたYouTubeチャンネルのThe Floating House Bandの動画について書いてきた時だった。

その前にThe Floating House Bnadだが、これはお茶の水の(確か前に書いた)レコードショップ「ハーモニー」でたまたま見つけたレコードだった。ジャケット写真で買ってしまったレコードの一枚だった。それを聞いてすごく良かったので自分達のバンドでもやろうということになって何曲かをやったと思う。

それで、勝手に彼らのレコードをアップしていたのだけれど、それを見てジョンさんがメールをくれた。ジョンさんは当時Floating Hause Bnadの人と一緒に暮らしていて(サンフランシスコで)、
バンドの誰かに彼女をとられて恨みがあるということだった。
しかしそれとは関係なくあのレコードには入っていないいい曲があるよ。と言っていた。
それが始まりだった。それからもう6年くらいになるがメールをやりとりしている。

面白いことにジョンさんと私の過ごしてきた人生は非常に似ている。
話始めてそのことがだんだん色々なことで共通していることがわかり、二人で面白がった。
まず私としては珍しく同い年だった。
彼は写真家だった。またギター(Martin G-18)の古いのを持っていて弾いている。
彼の元の家族関係と今の家族関係は私と全く同じだった。
それから今まで手に入れたお金、遣ってきたお金の額がほぼ同じだった。
細かなことは思い出せないが、あらゆることでシンクロしていた。

以前はほとんど毎日メールをやりとりしていたが、今は時々だがやりとりしている。
今、どんな状況でどんな風に考えているか、どちらかが書いたものは互いにほとんど同じような考えで、思いで、心境でいることがわかった。

これは非常に不思議なことだ。
どちらが先に書いても同じだ。
日本とアメリカと遠く離れているのに。
向こうが市役所に行って来たと書いてくると、私もほぼ同じ時に区役所に行っていた。
年金の話をしたら、彼は私が金に困窮していることを知っていたので言わなかったけれど、かれもほぼ同額の年金を受けているという。

旅行できるお金ができたら一度ユタまで行って、会いたいと思う。

7/01/2015

柿崎さんのこと

柿崎さんは、仲間で会社を作った時ソフトをやっていた。
彼は私の唯一の同い年の友達だった。
彼は野太い声で話をした。
いつもおかしなことを言って私を笑わせていた。
大きな工場の機械の下で一緒に徹夜もした。

会社を変わって彼とは別の会社を始めた。
彼は確かソフト関連の会社に移った。
数年は会うことはなかったけれど、知人からは一緒にスキーに行ったとか聞いていた。
また彼は元同じ会社にいた女性と結婚して子供もできたと聞いていた。

それで、どうしてるだろうかと、彼の新しい家に電話してみた。
奥さんが出た。
「ああ、元気ですか?」彼女は言った。
「カキちゃんいます?」私は聞いた。
「え?」そのあと暫く沈黙があった。どうしたのかな、と思った。
「本当に聞いてないの?」彼女は言った。ちょっときつい感じだった。
「なんで? どうした!?」私は全くわからなかった。

それから彼が心筋梗塞で急逝したことを知った。
暫く声が出なかった。
泣いた。
電話の向こうで「一度会いに来て」と言っていた。

その後、同じ会社をやっていた人を誘って、彼と一緒に彼の家に行った。
仏壇にあった写真は何かの冗談のように思えた。

同い年の日本人の友達は彼が最後だった。
あの時、まだ30台だった。

6/29/2015

三井君のことπのこと


三井君という人がいた。彼はいつも全教科クラスでトップだったと思う。
私はほとんどの教科はあまり良くない成績だったけれど、物理と数学だけは
1度だけ彼を超えたことがあった。私がクラスでトップになったのはたぶん
その時だけだ。
三井君の家は私の家から少し離れていたけれど、団地に住んでいた。
学校が終わっていつも彼の団地の階段の踊り場で話をした。
だいたいが物理の話だったけれど、何時間も立ったまま話をした。
いつだったか、学校で誰かが「πは7分の22で求まる」と言ったのを
私も三井君も聞いていた。
それで私が「それで求まるのは3桁だけだよねぇ?」「そういえばπって
どうやって計算するんだろう?」と三井君に聞いた。
三井君は確かルート2を使った計算式を言ったけれど、それも確か3桁だった。
それで、じゃあどうやれば100桁以上出せるか考えよう、ということになって
ふたりでそれぞれ、ずいぶん考えた。
本屋に行って計算式を調べたりした。
しかし、二人とも結局計算式は出せなかった。
私も三井君も級数計算の方法を勉強しないと出せない、という結論になった。
確か、級数計算の式をどこかから見つけてきて、2,3桁だけ計算したような
記憶がある。
三井君とは相対論とかについても話した。
と言ってもそこらへんの本に書いてあるような話だけれど、三井君は私よりも
ずっと本当のことを知っているような気がしていた。
三井君のお父さんは確か大学の先生だった。たぶん三井君も立派な人に
なっていると思う。今会えたら、今度は量子について話したい。
きっと彼は私のわからないことをきちんと説明してくれるだろう。

6/28/2015

明日はどっちだ?

今日、ホームセンターに買い物に行った。
店内を歩き回っているうちに胸が苦しくなった。
苦しいというのはちょっと違うかもしれないが、
みぞおちの辺りを中からつままれて痛いような感じだ。
今年に入って3回目。
その前は30年くらいに何度かなった。
その時に病院に行ったがはっきりわからず心筋梗塞か?
ということでニトロをもらってきたが、使うことは無かった。
今回は今年に入って3回目だから、ちょっとやばい感じがする。

店内の通路に30分くらい動かず座っていた。
汗がひどく、床にしたたっていた。
大勢の人が脇を歩いている。
私がいた商品棚をずっとみている人もいた。
私はずっと下を向いて額の汗をぬぐっていた。
その間、誰一人私に声をかける人はいなかった。

「私はここに居るのか?」
ひょっとして今こうしているのは私の骸か?
急に怖くなって、携帯で家族に電話をした。
みなが来てくれた頃にはだいぶ良くなっていた。

今年1回目は、駅から家に向かう途中だった。
倒れそうだったけれど、なんとか歩いてたどり着いた。
2回目は、風呂でシャワーをしているときだった。
しばらく座ってじっとしていたら、良くなった。
3回目があったら病院に行こう、と思った。

それで3回目だ。
病院に行こう。



6/25/2015

偶然とは思えない偶然

特別なことも無いのに、
いや何か特別なことがあるのかもしれないが、
同じようなことが何度も起きることがある。

最も頻繁に起きるのは、電話がかかってくるのと同時に玄関のインターフォンが鳴る。
一日は24時間十分あるのに、電話は日に一度かかってくるかどうかなのに、
人も日に一度くるかどうかなのに、
それが同時に起きる。
しかも来客は2人同時にくることもある。
いわゆるシンクロニシティとして良く言われているようなこともよく起きる。
あまりに頻繁におきるので、自分の世界はどこかで制御されているような気になる。

今日、不思議な偶然がまたあった。
YouTubeで映画を観た。もう10年以上前に見た映画だ。好きな映画だ。
すでに何度も見た映画なのだが、その始まりの映像を観て驚いた。
いままで気がつかなかったけれど、この建物は知っている。




地下鉄の車窓から見える丘の上に古風な建物があり、それをいつも見ていた。
あれはいったい何の建物だろう? とずっと思っていた。
それで自転車を買った時にあそこに行ってみようと思った。

その建物は丘の上にあった。
そこまではずっと坂道なので、自転車を押してやっとたどり着いた。

ついた時に、ここには前に来たことがあるという感じがした。
いつか子供の頃、この前に立って、こうして建物を見ていた気がした。

 
それがわかった。
この映画に出てきた建物だった。
今日映画を観なければ気がつかなかっただろう。
偶然か?
私があの場所に行ったのは偶然なのか?
 
・大倉山記念館
・1999年の夏休み

6/19/2015

札幌の昔の航空写真

札幌の昔の航空写真

最近、昔の地図や航空写真が見れるサイトを見つけたので、札幌ネタを復活させよう。
ちょうど私が札幌に行った頃の写真があった。
大通りの21丁目あたり。

最初に下宿した片岡さんの家もはっきり写っている。
また勤め先だった佐川ビルの近くには工場長の家も写っている。
写真は1976年なのでまさに私が居た時の写真だ。
そう思ってみると不思議な感じがする。
時間がわからないが、ビルの近くに私の車が停まっているはずだ。
しかし、それらしいものは見えない。

大通りから引っ越して宮の森のアパートに移った。
それがこの写真。
 

 
 
これも1976年の写真。
この写真の右上のくの字型のマンションの下に東急ストアーがあった。
その右が地下鉄駅。
記憶ではアパートから近かったように思うが、こうやって見るとけっこう遠かった。
上と下の2本の大きな通りの真ん中にもう1本道があるが、これは行き止まり(つきあたり)
になっていて、そこに銭湯があった。
風呂が焼けた時、利用したが、そこからアパートに帰るまでに髪の毛が凍った。
上の広い道が左の方で曲がっている、ちょうど曲がり角あたりの右側に喫茶店
「ウインディー・ウエスト」というのがあった。ガラスをふんだんに使った綺麗なお店だった。
 
もうひとつ気になっていた「青い橋」のお店があったところの写真。
 
これも1976年の写真
写真中央の赤い屋根が並んでいるところの右下が駐車場だった。
そこに車を置いて、そこの右下の緑の屋根の一部が見えているところがお店だったように思う。
駐車場からそのお店までの間に橋があったと思う。
写真からはよくわからない。
あるいはその左側の屋根がそうだろうか。
全く記憶でははっきりしない。
 
1981年の写真では、たぶん、まだあるように見える。
 
白黒なので鮮明ではないが、たぶんある。
 
そして、1985年の写真では、たぶん、もう無い。
 
別に私は青い橋の関係者ではないし、青い橋自体が現在どうなっているかしらないが、
私の記憶の検証をしているだけだ。
たぶん、この写真の中をGoogleのように歩ければすぐにわかると思う。
しかし全ては記憶の中にしかない、というのは淋しい。
 
 
 
 
 

6/13/2015

量子と幽霊について考えてみた


幽霊の典型的パターンは、ある人が怨みや後悔などの思い残しを持ったまま死んでしまい、
その思いが幽霊になって現れるとかだろうか。
つまり、そうではなく別な人生を歩いていたはずの人が、思いとは別の終止符を打たれて
しまったということなのだろう。

例えば、本来なら自分が会社から家に帰って家族と食事をするはずが、途中で交通事故にあって
死んでしまった場合だけれど、
交通事故に遭わずに家に帰っていた可能性もあるわけで、パラレルワールドとかではなく
生きて家に帰った自分の確率があるはず。
そううすると自分は死んでしまった世界で、存在しない「はず」の世界でも、生きていた「はず」の
確率分だけ自分は存在しているはず。
私の死をはっきりと確認した人は私が「生きている」か「死んでいる」かのどちらかの状態を
確認しているはずなので、私は死んでいることになる。
そうでなく、私の死を確認していない人、人伝で知った人にとっては私の死は、それをはっきりと
確認するまでは「死んでいる」と「生きている」の両方の状態をとりうる。
私が死んでいる状態は現象として確認することは出来ないけれど、私が「死なずに」歩き回って
いるのはある確率分だけ現象として見ることができるのではないだろうか。

そう考えると今生きている(とされている)私はどこかで死んでしまったはずの確率も持っている
のであるから、私を見たり、私と話したりしている人は私が生きているとする確率分の姿を見ている
ことになる。
私は生きているのだろうか、あるいは死んでいるのだろうか。

6/09/2015

WoodSmog concert ウッドスモッグコンサート 日比谷野音


1971年5月19日だったらしい。
考えてみると箱根アフロディーテの3ヶ月前だ。
私は学校の同じクラブの女の子Tとその野音にいた。
私は行こうと思うような人は出ていなかったので彼女に誘われたのだと思う。
その日はお約束の雨で、彼女は真っ赤な傘をさしていた。私は傘を持っていなかったと思う。
だからその真っ赤な傘にでかいのと小さいのが二人で入っていたことになる。
それで、レコードジャケットに自分達が写っていないだろうか?と思い、オークションでLP
を手に入れた。たまたま安い(通常¥5000~¥1万円以上)のが出ていたので購入した。

私たちはステージに向かって右の後ろの方にいた。大きな写真には写っていないようだ。
右手の赤い傘ではない。
もう1枚小さな写真があり、それは右手の方も写っている。
ルーペで見ると最終列に赤い傘がある。
たぶんこれだ。
私は写っていないがたぶんそのあたりにいたはずだ。

音を聴いてみた。
記憶から浮かび上がる音は無かったが、こんな雰囲気だったんだなと思う。
確か吉田拓郎も出ていたと思うがレコードには入っていない。
高田渡は伴奏とハモで聞こえるのがそうなんだろうか。
内田裕也氏がステージにいたはずだがネットにもその記述は無い。
私は知らないが彼女が「内田裕也だ」と言っていたのを覚えている。

なんか雨で冷たいコンサートだったなあ、と思う。
浅川マキさんが出ていた。
「私だけ屋根の下じゃいけないわね」と
ステージの一番前で雨に濡れながら歌っていたのが印象的だった。




4/28/2015

平行宇宙と引力


なんと12月から何も書いていなかった。
ので、何か書こう。

ちょっと面白いと思ったことがある。
誰か有名人が亡くなったときいた時、「あれこの人前に亡くなっていたんじゃない?」
と思うことが私だけではなくあるようだ。
しかもその人物はほかの人も同じ人をそう思うようだ。

それは恐らく単なる思い違いにすぎないのだろうが、
思い違いではなかった場合はどうなんだろう?という話だ。

その人の記憶では、つまりその人が生きてきた過去においてはその人は亡くなっていた、
のかもしれない。どこかで平行宇宙を横切ってしまい、その人がまだ生きている世界に
来てしまったということではないか、と考える。
無いとは言えない。

昔どこかの超能力者が行っていたが、未来を予知したり、何か不思議なことを起こす
のは単に、そのことが起きる平衡宇宙に移動するだけだと。
もしそういう能力があるなら、それは単純なことなのかもしれない。
しかし、普通に生活していてほかの宇宙に移動してしまうということがあるのだろうか。
もし今そういう現象があるなら過去においてもずっとあったのだろう。

平行宇宙は数学的に同次元なのであろう。もしも次元の違う宇宙に行ってしまったら
のんびり「このひとは前に・・」などと考えてはいられないだろう。
でもひょっとするとそういう次元に行ってしまった人がいるかもしれない。

では同じ次元にしろ別の次元にしろ、他の宇宙に移動することはできるのだろうか?
あるいは他の宇宙を知ることはできるのだろうか?

先日テレビの物理の番組を見ていて、面白いことに気がついた。
その先生が言うには別の宇宙があったとしても音も光も電波も届かないから
別の世界のことをしることができない。と。
しかしその先生は最後に面白いことを言った。
「引力はとどくでしょうね」と。
そうなのか、引力は空間の歪みだからその歪みは別宇宙で感知できるかもしれない。

そう考えるといろいろ思い当たることが無いだろうか。
たとえばピラミッドだ。
あんなに巨大なものを作って何の意味があったのだろう。
恐らくその重さが問題だったのではないだろうか。
あれだけ大きな重量を持ったものなら、その重量で空間も歪んでいるのではないだろうか。
しかもピラミッドの中には「重量軽減の部屋」というものさえある。
それが元々そういう名前だったかどうかは知らないが。
何かあるだろう、きっと。
あの中心で何か願い事をすれば、それの起きる並行宇宙に行けるのかもしれない。
何か重力に変化を与えればいいんのではないだろうか。

大仏はなぜあんなに大きいのだろう。
大きな岩が神様扱いされるのはどうしてだろう?
宇宙空間のように星の引力の影響をあまりうけない場所はどうだろう。
あるいは高いところから落ちる場合はどうだろう。
バンジージャンプをしながら何か願えばいいのだろうか。
いやそれは本人が落下により無重量状態になっているだけだ。
そうでなく、空間に影響を与えるものでなければいけない。