9/26/2015

駅 STATION

札幌の工場でパートの人達と仕事をしていたとき、回りの音楽は歌謡曲であり演歌であった。
自分では洋楽ばかり聴いていたけれど会社にいたとき聞こえてくるのは歌謡曲、演歌だった。

テレビではないけれど、高倉健主演の映画「駅 STATION」も自分を追いかけてきた映画だ。
この映画が公開されたのは私が札幌から東京に移った年(1981年)だったし、映画の中で
事件が起きる年は私が札幌に赴任した次の年(1976年)だった。


この映画は北海道の生活というか北海道に生きる雰囲気がよく表されているように思う。
流れる音楽は演歌でなければいけない。
私の場合、この映画の中の雪のシーンが好きだ。
自分が雪の中にいた時のことを思い出す。
一人で吹雪の中を歩いていた。
港に車を停めて荒れる海を見ていた。


増毛へは何度も行った。
石狩から増毛へはずっと左に海を見ながら走る。とてもきれいな道だ。

 
銭函は小樽に行く時に通るが、車だと駅に行くことはない。
たぶん駅へ行ったのは1,2度しかない。
5号線から駅は少し離れている。
銭函から朝里へ行く途中5号線は大きくU字型に迂回させられる。
山肌にそって谷を迂回していた。
その場所が好きだった。
ずっと遠回りをさせられるのだけれど、上に高速の橋がかかり、その下を走る。
U字の頂点のところでは海が臨めた。


雄冬は増毛に行く途中だ。
この同じ場所で写真を撮った記憶がある。
そうだ、札幌を離れる直前の2月の終わりに、ここを通った。
あれは真冬の吹雪の日だった。
前にその時の写真を貼ったような気がする。
冬の稚内へ行ってみようと思い、どこまで行けるかわからないけれど、
行ってみようと思った。
でも吹雪がひどくて、留萌を過ぎた直線道路のあたりで、
「もうここでやめよう」と、車を停めて窓越しにカモメを撮った。
その時、一緒に行った人はもういない。
最後は電話で話しただけだ。
札幌を離れる時、車のルームミラーに手を振る姿が写っていた。
そんなシーンもだぶる映画だった。




9/25/2015

北の国から

先にどうもテレビが自分の人生を追いかけてくるような気がする、と書いたけれど、
この「北の国から」は私が札幌から東京に戻った年に始まった。
実際はこのドラマの舞台は私の住んでいた札幌とはあまりに違う世界だったけれど、
北海道の景色を見ることができるのが嬉しかった。
ドラマは全て観た。
いやがうえにも北海道が懐かしくなる。
しかしあまりに淋しいストーリーだ。

富良野には近くまでしか行ったことがない。
前田真三さんで有名になったあの景色は意識して見た事がないかった。
たぶんどこかに行く途中に通過しただけだったのではないだろうか。

あのドラマは一度終わってもその後スペシャル番組として継続して物語が語られていた。
だから2000年過ぎてもまるで北海道がついてきているような気がしてならなかった。



9/24/2015

俺たちの旅 俺たちの朝 俺たちの祭

どうもテレビは自分の人生を追いかけてくるような気がする。
私が札幌に赴任した年に始まった番組に「俺たちの旅」があった。
これはほとんど毎回見ていたと思う。
別に誰か好きな俳優が出ていたわけではないのだけれど、井之頭公園や
杉並、新宿あたりでロケをしていたので、その景色が懐かしかった。
特に井の頭公園は懐かしかった。そのために見ていた。
物語はほとんど覚えていない。
カースケ、グズロク、おめだ、ワカメという名前は覚えている。
 
 
その次の年にやっていたのが、
「俺たちの朝」だった。
このロケ地は鎌倉と湘南だった。
その場所も私が学生の頃にしょちゅういた場所だったので、
江ノ電、極楽寺、鎌倉、稲村ガ崎、江ノ島・・・
とても懐かしかった。
このドラマもそういうわけであまりストーリーは覚えていない。
カーコ役の長谷直美は好きだった。
それで見ていたようなものだった。

 
 
その次の年(1977年?)にやっていたのが「俺たちの祭」だった。
これはなぜか見ていなかった。
確か都内がロケ地だったと思うkれど、あまり思い入れがなかった。




9/23/2015

おはよう720 (続きの続き) 白日夢

ロジャーウィテッカーの「ラストフェアウェル」ともう一つよく覚えている曲があると書いたけれど、
もう一つは松任谷由実の「白日夢」だ。
これを聴くとキャラバンのシーンが目に浮かぶ。
   
  白い夏服が風にはためいて
  私はしばらく平原の鳥
  長かった夢を
  明日は後にして
  サボテンと
  ブラインドの部屋へ

その頃住んでいたアパートはブラインドではなかったけれど、朝は出かけるので
いつもカーテンを閉めていた。
カーテン越しの光の中でテレビを見ていた。
その感じを思い出す。

この歌はところどころの歌詞を覚えていたけれど、札幌を後にしてから
時々、あの歌はなんていう歌だったのだろう?と思っていた。
レコード屋に行った時に松任谷由実のレコードを見ていたけれど、歌詞を見ても
どうもそういう歌詞が見つからなかった。
そのままずっと時が過ぎて、すっかり忘れていた。

インターネットが普及してきて、ホームページやメールも自由に使えるようになって、
音楽関係の掲示板で尋ねたら、ファンの人がすぐに教えてくれた。
それで「白日夢」という歌だとわかった。
調べてみると「おはよう700」では1980年の3月31日から流れた、とあった。
それが本当とすると私は少し勘違いしていたようだ。
私が札幌を離れたのは1980年の3月だと思っていたけれど、そうだとすると
この歌を700で聴くことはなかったはずだ。
自分はいったいいつまで札幌にいたのだろう?と考えてしまった。
それで何かマイルストーンは無いだろうか?と考えたら、ジョンレノンがいた。
ジョンレノンのショッキングなニュースはバードマンションのあの部屋のテレビできいた。
ジョンレノンが亡くなったのは1980年の12月だった。
だから私は1981年の3月まで札幌にいたはずだ。
私は5年間札幌にいたと思っていたけれど、6年いたのだ。

9/22/2015

おはよう720 (続き)


「8時の空」というからにはこの二人はおはよう720のあとにやっていたのか。
ということに今気が付いた。

おはよう720も700もたぶん毎日見ていた。
その割りにあまりよく覚えていない。
よく覚えていないのだけど、キャラバンに時々出ていた女性を突然思い出した。
あれは誰だったのだろう? 
検索してみたけれど、どうも昔の画像があまりないのでよくわからない。
だけど、私はどうもその女性が出るのを楽しみにしていたように思う。

とても明るい感じで活発そうな感じの女性だった。
ケンケンではなく片山典子さんでもなく、土居かつえさんでもないと思う。
そうなると長谷川みつ美という人と、前田いずみ というひとのどちらかだと思う。
長谷川みつ美さんという人の写真が無いので確かではないけれど、
前田いずみ さんの当時の写真をみると、この人かもしれないと思う。

あのころの映像はどこかに保存されていないのだろうか。
なぜ突然思い出すほど覚えていたのか知りたい。



9/21/2015

おはよう720

札幌のことで書き込みがあったので、またちょっと思い出したことを書こう。

札幌に居たのは1975年の4月からだ。
小さな(確か9インチ)テレビを買った。ポータブルで車のシガーライターからも
電源が取れた。でもどこか電波の状態がよいところに車を停めないときれいには
見れなかった。
赴任そうそうの頃の下宿で、テレビは何を観ていたのか、ほとんど覚えていない。
今度、図書館で新聞を調べてみよう。

宮の森のバードマンションに引っ越してからは、ちょっと覚えている。
毎朝「おはよう720」を観てから会社に向かった。確か赴任した年に始まった。
それから「おはよう700」になった。
田中せいじさんと水越けいこさんが歌っていたのはよく覚えている。

番組のプログラムで世界各地を周るキャラバンをやっていた。そのバックに色々な
音楽が流れていた。Beautiful Sundayは置いといて、一番良く覚えているのはRoger Whittakerの
The Last Farewell と 松任谷由実の「白日夢」だ。

その時テレビから録音した音がカセットに残っていたのでYouTubeにアップしておいた。

ラストフェアエルの方は良く聴いた。この歌はアフリカを後にしてイギリスに帰る時の歌だけれど、
印象的な歌詞がある。
離れて行くアフリカに向かって
     
    君は美しい
    心から好きだった
    言葉では表せないくらいに

と呼びかけるところは心に響く。

私は北海道を去る時の青函連絡船のデッキでこの歌をウォークマンで聴いた。
函館の灯がだんだん遠ざかっていくのを見ながら 

     For you are beautiful,
       and I have loved you dearly
     More dearly than the spoken word can tell

と心の中で歌っていた。

9/13/2015

「トランスレーター」 と Terang Boelan

もう数年前になるけれど、兄が父の終戦直後の捕虜生活中に書いた日記を出版した。
私は出版された時に兄からその本を受け取ったが、なかなか読めなかった。
読めなかった理由は怖かったからだ。
父が若い頃に何をして、何を考え、どういう風に生きていたのかを知ることはどうしても
今の自分と対比してしまうだろうことが予想できた。
私と父とは違う人間だけれど、どこか同じような考え方をしていたのではないだろうか。
父が自分と違った考えをしていたことよりも自分と同じような考え方をしていたことが
怖かった。



その本をやっと読んだ。
父の日記の文章は淡々としていた。
しかしその中に父の感情が溢れていた。
父の声が聞こえてきそうで懐かしい感じがした。
父がイギリス軍の捕虜として生きていた頃の年齢は私が札幌から東京に戻った頃の
年齢だった。
父は英語と日本語の翻訳と通訳をしていたようだ。
日記を読むとたびたび印刷用の用紙を調達するのに苦労したことが出てくる。
当然イギリス兵と入手するためのやり取りを父はしていたのだろう。

私が子供の頃、父は英語で何か話したことがあったろうか。
あまりはっきり思い出せないが、わずかな記憶では父は英語の単語を一つずつ
はっきりと言っていたように思う。
テレビを見ていてニュースなどで英文が流れるとその文章を茨城弁で直訳して
いたこともあった。

私は一度だけ仕事でシンガポールに行ったことがあった。
国際展示場で展示された機械の技術的説明が必要なときだけ説明するだけの
仕事だった。その時泊まったホテルのあった場所は父がいた収容所からそれほど
遠くなかったことを知った。

日記の終盤1947年7月27日はこんな風に書かれていた。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------
  今日は日曜日。晴天なり。一日、休息を取る。正午頃十八名の日本人が、M.P.に
 捕らわれてキャンプに来る。今後の注意を約して事なきを得。夜、床屋に赴き、
 田島、関根と快談す。話は内地のこと、現在作業隊生活のことである。
  夜は月はさんさんとゴム林に照り、スマトラの月を思い出す。テラン・ボエラン
 [Teran Boelan]の懐かしきメロディー、懐かしかりきパングカラン。スマトラも今は
 独立戦争で風雲急なものがあるだろう。タクシーはどうしたかな。街のマーケットは?
 忘れ難きものあり。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------
このTeran Boelanという曲はどんな曲だろうと思った。
ひょっとして父はよく歌を口ずさんでいたので、聞き覚えているかもしれない。
そう思って探してみた。
こんな曲だった。



なにか聴いたことがあるような気もするが、ありそうなメロディーのような気もする。
なにかマレーシア国家と同じメロディーだとか。
また日本でも雪村いずみがレコードを出していたところを見ると、この歌は南洋に行って
いたひとにとっては懐かしい歌だったのだろう。

9/12/2015

Utah, This Is The Place again

以前にもこの歌を貼り付けたのだけれど、いつのまにか元のビデオが消されていた。
なぜだろう?
確かUtahの記念祝典で演奏されたものだったと思う。
あれを保存しておくのだった、と今になって思う。
この歌は他の合唱団もYouTubeに載せているけれど、あの演奏が最高だった。
タイトルも詳細も忘れてしまって残っていない。
確か指揮者は日系の人だった。名前が日本名だったから。
あの合唱が他と違うところは途中のヴァースを独唱の女の子一人が歌い上げて
いることだ。その声が抜群に良い。
どこかに映像が残っていないかと2年前に使っていたコンピュータを調べたら音声だけが
残っていた。これは私が自分の演奏をするときにMTRに移すためにろく音したものだ。
しかし、残念ながらこれはmonoralで録音されていた。

その女の子の独唱は0:56と2:09のところ。


私の演奏もYouTubeにアップしているのだけれど、ぐちゃぐちゃなので
途中からそのあたりを少し。
私は別にUtah州にはまったく関係していないし、モルモン教徒でもない。
ただ友人が一人住んでいるだけだ。

 
 

9/05/2015

A cat named Sloopy Rod Mckuen ロッド・マッケンの「スルーピーという名の猫」 

ロッド・マッケンで後悔してることは、札幌から東京に帰る時に何冊もあった彼の本を
全部古本屋に売ってしまったことだ。
その中にはアメリカに行った時に買った詩集3冊も入っていた。
まあ、また 米amazonで買えないこともないのだが、面倒だ。

スルーピーの詩は彼のライブ版でも朗読していた。ストリングスをバックに。
当時聴いた時は断片的にしかわからなかった。
でも亡くした愛猫のことだということはわかった。
その詩を改めて読んでみた。
初めてわかったことは彼が猫を失った、というか彼が猫を死なせてしまった理由だ。
自分の猫だったら謝っても謝りきれないだろうと思う。

訳は適当だけどこんな感じだと思う。
間違いに気づいたらお前達が直せばいい。


A cat named Sloopy
「スルーピーという名の猫」
ロッド・マッケン

しばらく前のことになるけれど

スルーピーが知る大地は彼女の砂箱だけだった。
55番街の部屋々が彼女の領域だった。
毎晩彼女はアボカドプラントの間に座って
私の帰りを待っていた。
(私の腕はレバーの缶詰が目一杯と愛がいっぱいだった)
私たちは夜まで話しをして、それで満足だった。
でも何かが恋しかった
彼女は知らなかった地面を
私は走ることのできる丘を
(草が茂ってるうちに)

スルーピーはカウボーイの猫のはずだった
走り回る草原があり、
リノリウムの床ではなく
それに本物の生きたねずみ、
彼女自身以外、誰にも頼ることもなく

私はそれを彼女には言わずに心の中で言っていたのだけれど
私はミッドナイトカウボーイだった
想像の馬に乗って42番外を歩いていた
見知らぬ人と一緒に出かけて行き
1時間のカーボーイ人生を生きていた
でもいつでも私を一番愛しているスルーピーの元に帰ってきた

12回の夏を
私たちは世界を相手に生きてきた
島の上の島で
彼女はゴロゴロと喉を鳴らし私を心地よくした
私は笑顔で彼女を太らせた
私たちは信頼関係を増していった
海辺も蝶々も必要無しに

私にはベンという友達がいた
彼はまるでルオーの絵の男のようで、建物を塗装していた
しかし彼は逝ってしまった
私の笑いはリリアンを疲れさせた
しばらくして
彼女はただ微笑むだけの男をみつけた
でもスルーピーだけはずっと私の傍にいてくれた


1959年
老人が犬を何匹か連れて歩いていた
ある犬はあまりにせわしなく歩くので
柔らかい灰色の雪の上にピンクの足跡を残していた
毛皮を着込んだ婦人達
エレガントになにげなく
雹をかぶったタクシーがその人達を乗せて
ブロックを回って戻って行く

12月が来るというのに
愛を求めない人はいないいだろう
子供達でさえサンタクロースにお祈りするのに
私には家に私の愛するものがいた
でも、私はまる一日家を留守にした
そして、その次の日も

彼らは私が狂ったと思ったはずだ。
スルーピー
スルーピー
と叫んでいた
雪が降ってきて私の周りに積もっていた
私は狂っていた
約束の時間よりも1分でも早く出かけようとしていた
私はゴールデンカウボーイだったらなと思った
彼女を窓枠から拾い上げて
優しくサドルバッグに入れて
アリゾナまで乗って行って
彼女はトカゲを追いかけまわす
今はたぶんサボテンの中にいる
辛いけど自由だ
私も辛い
そしてもう自由な人間じゃない

昔そんな時があった
ニューヨークのジャングルの中の木の中で
私が世に出る前に
他の種類の愛を探してるうちに
スルーピーという名前の猫以外私を独占したことがない
振り返ってみると
たぶん彼女は私に愛を返してくれたただ一人の「人間」だったと思う


A Cat Named Sloopy is from the book “Listen To The Warm” published by Random House.
Copyright Rod McKuen 1963-1967.

9/03/2015

初夏 (ふきのとう)

「ふきのとう」の「初夏」は私が札幌に赴任したのとちょうど同じ月にリリースされた。
考えてみるとこれほど懐かしくまた心象風景としてこれほどうまく札幌を描いた
歌も無いように思う。

    噴水の前で 記念写真を
    撮っているのは 新婚さんかな
    僕は座って それを見ている
    鳩はつついてる とうきびの殻を
    夏の初めの昼下がりは
    とても馴染めず淋しくなる

赴任した頃はよく大通りの地下に車を停めて公園を歩いた。
上の歌詞はその時の情景そのままだ。
何一つ違わない。
夏になると内地からの旅行者が増える。
明らかに東京から来た人達が写真を撮ったり、
ふざけあっていたりする。
私は「僕も東京から来たんだよ」と心の中で言いながら。
彼らはまた東京に帰るんだな。
と淋しい感じがした。

    時計台を見て たむろしている
    大きなリュックの 黒いかに族
    僕は通り過ぎ 見ないふりして
    道を聞かぬよう 声をかけぬよう

東京からフェリーに積んだ自分の車が戻って来て、最初に行ったのが
時計台だった。
夜中だった。
途中パトカーに静止させられ、「時計台を見に行くところ」
と言ったら、すんなり「単身かい?気をつけて」と行ってしまった。
時計台について、しばらくすると鐘が鳴った。
余韻の無いちょっと鋭い音だった。
夜中の街に響いていた。
その音を聴いたら無償に淋しくなったて、そのまま朝まで
支笏湖の方まで走った。

    地下街はいつも 都会の顔して
    狸小路を 田舎扱い
    僕は地下鉄の 電車を待っている
    センチメンタルに 浸ったふりして

狸小路と地下街の、この感じは住んでみないとわからないだろう。
地下街は当時(1975年頃)、歩いていると東京を思い出した。
擬似東京体験だった。
通路は明るく、白く、にぎやかだった。
テレビ塔の下の紀伊国屋から4丁目の方にあった本屋、
それからパルコに入って楽器屋と本屋、
いつもそのあたりを用も無いのに歩いた。

地下鉄はたまにしか乗らなかった。
乗った時のことはあまり覚えていないが、
大通りから西28丁目まで乗って、吹雪の中を宮の森まで帰ったことは
何度もあった。
当時、自動改札は札幌の地下鉄が最初だったのではないだろうか。
また車輪はタイヤで音も静かだった。
ただ、網棚が無かった。今もそうだろうか?
カバンを頭の上に落とされた人を何人も見たことがある。

そうだ会社から街に買い物に行く時は地下鉄だったはずだ。
西20丁目から乗って大通りあたりまで。
あれは決して「センチメンタルに浸った振り」ではなかった。
なぜかわからない淋しさがあった。
あの音かもしれない。
あの地下鉄の警笛。