9/25/2016

本日は晴天なり Test,one,two,three

というマイクテストに使われていた言葉がある。
「この言葉は英語のIt's a fine dayをそのまま訳して使っているので、
元の英語の周波数成分を含まないので意味が無い。」
というのが通説らしい。
しかしこれはどう考えてもおかしい。
まず周波数成分としては「本日は晴天なり」の方が高い方から低い方まで多く含んでいる。
あるいは英語の発音に意味がある、とか言う人もいるけれど、英語の発音を日本で
使っても意味が無い。それより日本語の発声の方がいいに決まってる。

これはたぶん誰かがでっちあげた都市伝説なんじゃないだろうか。
日本語でも英語でも検索したけれど、この言葉(It's a fine day)がマイクテストに使われていたという記述は無い。(…と思う)
何かの映画でマイクテストにこの言葉が使われていたのも聞いたことがない。
「アマチュア無線で使われていた」というのが誰かのサイトに書かれていたけれど、
それなら挨拶は「CQ、CQ」とかだろう。

ちょっと参考になることが書かれていた。
http://www.southgatearc.org/news/april2006/first_words.htm

The first word spoken on radio
'Hello!'  Not surprisingly, it was the first word to be heard over the radio some 100 years ago.
From the time he was a young boy, Canadian Reginald Fessenden was fascinated with the idea of transmitting voice. Upon hearing his uncle describe Alexander Graham Bell's demonstration of the telephone, the 10 year-old reportedly asked, "Why do they need wires?" He then spent much of his life trying to figure it out.
His early attempts at voice transmission were unintelligible. With government backing, Fessenden, and his assistant Thiessen, kept trying various improvements until they met with success. The first words transmitted via radio were "Hello! Test, 1, 2, 3, 4. Is it snowing where you are Mr. Thiessen?"

この最後のところだけど、「Test, one , two,」は今でも使われるマイクテストの言葉だ。
その次のところだけど、「It's snowing 」と言っている。
つまり時候の挨拶だ。
たぶん「本日は晴天なり」という言葉を思いついた人は、誰かが時候の挨拶として
It's a fine day「いい天気です」と言っていたのを、そういうもんなんだと思って
使っただけなのだろう。それは自然に出る言葉だから。

しかし、この「本日は晴天なり」という言葉は日本では広く使われてきた言葉で、
とても素晴らしいと思う。思いついた人は天才的だ。
今でも正式に無線でのマイクテストにこれを使うことが決められているらしい。
この言葉がすべて正確に再現できているかでオーディオ設備の再生精度を
確認するのにとてもいい言葉だと思う。
最近はあまり使われなくなったのが寂しい。




9/23/2016

ノスタルジック渋谷

ねえ、あれはいつだっけ?
渋谷駅前のハチ公前の広場で別れたのは。
まだ交番があったね。
あの後の記憶がはっきりしない。
あの時君は何て言ったの?

あそこで別れたということはそれまでどこに行っていたのだろうか?
なぜだろう、その前まではもっとたくさんの人がいたように思う。
どこかでみんなで集まっていたのかな?

それじゃあ、あれはいつだったろう?
地下の部室だったかな?
学校だったと思うけど、
はっきりしない。
ねえ、あの時は君は何て言ったの?

あの映画は僕は全く観る気がしなかったよ。
でも観て良かった。
あんなにすごい人だとは思わなかったから。
今でもあの映画は思い出せる。
だけど、なぜ君は僕をあの映画に誘ったの?
その映画館はもう無いけれど、
渋谷に行けばあの映画館があるような気がする。

あの地下の喫茶店。
あれももうずいぶん昔に無くなってしまった。
でもあの煙った狭い部屋で、
洪水のような音の中に僕らが居たことは
今でも思い出す。

実はあの後何度かあのお店に行ったんだ。
でも君に会うことは無かった。
じゃあ、なぜ君は僕をあの店に誘ったの?

君のアパートの狭い部屋のコタツで
朝までレコードを聴きながら話をしたね。
空が明るくなる前に
僕は眠ってしまった。
あの部屋ももう無いだろうな。
駅からの道は覚えているけれど
あの部屋まではたどり着けない。

雨の日の野外コンサート
傘の中からステージを眺めていた。
誰かが大声で歌っている時に
君は何か言ったね
よく聞こえなかったけど
あれは何て言ったの?

いつだったか君の家に電話をしたね。
あまり元気がなさそうだったけど
君は僕に聞いたね。
その時僕は何て言ったろう?

全てはまだ何もが始まる前のこと。
ずっとずっと昔、昔のこと。
たぶんあの時が世界が始まる前の
最後の1ページだった。


9/20/2016

札幌1992年 (2)

住んでいた時には近くに古い洋館のような建物がいくつかあった。
この1992年に行った時にはすでにそのいくつかが無くなっていた。
でもこの家だけは1992年には残っていた。


しかしこの辺りは今はすっかり変わってしまってもう無い。
多分大通り20の17あたり。
ここよりもう少し西の方にももう1軒あったように思うが、そこももう無かった。

私が住んでいた(下宿のようなアパート)は1992年にはまだあった。
大通り22丁目だった。

右手のシャッターの向こうに鉄製の階段があった。
そこを登ってすぐ右側が私の部屋だった。
しかしこの写真は当時と何かが違うような気がする。
何が違うのだろう?

札幌1992年 (1)

私が東京に移ってから2度目の札幌だった。
写真に1992年とあるので、多分1992年なのだろう。
写真を見ると今年行った時には既に無かったものが写っていた。

円山市場
円山市場の北側に駐車場があったけれど、それがまだあった。
この駐車場は現在は半分以上無くなっている。
その向こうに見える果物屋だけれど、現在残ってお店がそうだろうと思っていたら、
今あるお店はその隣にあったお店のようだ。
上の写真にあるビルがそのようだ。色が茶色に変わっている。

一枚、どこで撮ったのかわからに写真があった。
たぶん、昔からあったであろう家を撮ったのだと思う。
たぶん街の方だと思って地図を探したけれど、よくわからない。
それで写真にある「安全モーター商会」という名前と「54山京ビル」という名前で
調べてわかった。ここだ。Googleだとここだ。
この青い三角屋根の建物だけれど、1975年の航空写真には写っていない。
でも1985年には写っている。

だからたぶん1975年よりも後で建ったもののようだ。
現在は幅が半分になっているようだ。
しかし、なぜこの場所を撮ったのかわからない。

9/18/2016

友人とクラッシック

問題は同じことを二度書いてしまうことかもしれない。
でもこれはまだ書いていないはず。

高校は都立神代高校という高校だった。
木造のおんぼろ校舎だった。
友人に「カチョウ」と呼ばれている男がいた。
本名は小柳勇志朗と言ったと思う。  字が違うかも。
私はクラスでは一番背が高い方だったが、彼は私よりも2センチくらい大きかった。
並んでバス停まで帰る時、あいつはよく私の肩に手を置いて歩いた。
ちょっと変だったかもしれないが、その時はそんな風には思わなかった。

カチョウもクラシック音楽が好きだった。
よく音楽の話をした。
クラシック音楽の話を気兼ねなくできるのは彼だけだった。
音楽の知識は私の方が詳しかった。
でも彼の方が間違えていても決して譲らなかった。


私は短距離が得意だった。
体育の授業で50mの記録を録る時があった。
私とカチョーは同じグループだった。
ゴールの手前で横を見た時カチョーは少し後ろで顔を上に向けて走っていた。
そのグループでは私が1番だった。
でもカチョウは1番の記録時間を自分の時間と信じていて譲らなかった。
ま、いいかと思って、私は2番目の記録を自分の記録として書いた。

どこかに一緒にオーケストラを聴きに行ったことがあったような気がする。
調布だったか。
その会場がシンナーの匂いが強くて音楽を聴いてる場合ではないほどだった。

カチョーの家に行ったことがあった。
確か多摩川に近い団地の一室だった。
タンスの上でハムスターを飼っていた。
その匂いがたまらなく臭かった。
「気にならないの?」と聞いたら、気にならないと言っていた。

カチョーと付き合わなくなったのは、私が当時同じクラスの女の子と付き合い始めた
からだったのだろう。
私が彼女とバス停まで歩いていると彼は道路の反対側を一人でまっすぐ前を向いて
歩いていた。
そのシーンだけをよく覚えている。

それからずいぶん年月が経ってから、京王線の電車で偶然彼に会った。
全く以前のままの感じだった。
「元気?」とかなんとか言ったように思う。
私が電車を降りるとき「じゃあね」と言うと、
彼も「じゃあ」と言い、
まっすぐ窓の外を見ていた。

9/14/2016

Kein schöner Land , Trapp family in America「菩提樹」から

この映画を初めて見たのは実に小学校6年の時だ。
とてもよく覚えている。
特にこの最後のシーンとこの歌のメロディーは覚えている。
時々くちずさんでいた。


ずっと後になって、もう50近くになってこの映画がネットで買えることが分かって、
注文した。
海外のアマゾンだった。
DVD2枚組でTrappファミリーのヨーロッパの物語と、アメリカに渡ってからの物語
が2枚のDVDに入っていた。
ただし、これはPAL仕様のDVDだった。幸い仕事上PALの再生はできた。

そのDVDを改めて見た時思ったのは、劇中の曲は覚えているけれどシーンはほとんど覚えて
いないことだ。
この少年は「野ばら」に出ていたミハエル・エンデだとわかった。
母親役の女性は今見るととても綺麗な人だと思った。

小学生の時に見た時はこれが後のサウンド・オブ・ミュージックの元になった映画
だとは知る由も無かった。
サウンド・オブ・ミュージックは16歳の時だった。
映画の中でI am sixteenと歌っていたが、その年齢だった。

YouTubeにはこの歌を歌っている映像がたくさんある。
でもメロディーが映画のものとは少し異なるみたいだ。
とても美しい歌だと思う。