12/15/2016

量子についての誤解

教科書には今でも「量子は波であり粒子でもある」とか書かれていることだろう。
私自身もそうだったが、これが量子についての誤解の始まりのような気がする。
量子が何であるかということは今現在も解明されていないはず。
それを波であり粒子でもある、と言ってしまったら理解できるわけがない。

正しくは、量子は波のような挙動と同時に粒子のような挙動をする”もの”である。とか
なんとか言った方がいいのではないだろうか。
あるいは量子はその挙動が波動方程式で現わされる”もの”である。とか。
あるいは量子の存在は波動方程式から導かれる確率で現わされる。とか。

そうすれば、二重スリット問題なんかも全く不思議じゃなくなるし、
その前に、素粒子を1個ずつスリットに通しても干渉模様を描くとかいうことも理解できる。
なぜなら量子は波が示す確率で存在するから。1個ずつだろうがまとめてだろうが、
確率の描く模様通りに存在を現わすから。

人間がそのその位置や存在を確認しようとすると粒子の挙動をするとかいうことも理解できる。
挙動を確認するということは、その存在を示す確率を表す波を止めてしまうわけだから、
確率を表す波はその時点での確率が最も高い位置を示すしかない。

それを「波である」と言ってしまったら電波のような、あるいは海の波のような形状を連想
してしまう。その手の波だと考えてしまうと止まった時に後からくる波はどうした?
ということになってしまう。

波と言っているのはあくまでも波動方程式でその挙動が表現できるらしい、というこで
あって、量子は波であるとわかっているわけではない。
たぶん量子はなぜかその存在は波の性質を持っているのだろう。だから波についての
様々なアプローチができる。フーリエ変換などもできるのだろう。ただ波としてはひょっとすると
1波だけなのかもしれない。パルス波形みたいな。
パルス波形も連続した正弦波としてフーリエ変換するのだけれど、同じように量子も
連続した波として扱うことになるのだろう。しかし量子が連続した波であるかどうかは
わからないと思う。ただ単に波の方程式で現わされるらしいということだ。


12/08/2016

Wilhelm Furtwangler

前に確かTscaniniが好きだと書いたと思うけれど、中学・高校時代はトスカニーニばかり
聴いていた。まあ、NHKとFENでトスカニーニ・アワーという番組をやっていたせいも
あるのだけど、フルトヴェングラーはほとんど聴かなかった。
その理由は当時はフルトヴェングラーはナチに協力していたと言われていたからという
理由が大きい。
最近「戦争交響曲」(中川右介著)という本を読んで、たぶん正しい事実関係を知った。
フルトヴェングラーという人は悪い人では無いということだ。
どちらかというと不器用な芸術家気質という感じだろうか。
ただ不幸なことに当時のナチスドイツで暮らさずを得なかったということだろう。
K氏のようにナチスの党員になっていたわけでもなく、ヒトラーをできるだけ避けて
音楽活動をしたかったようだ。しかしヒトラー、ゲッペルスは宣伝塔として彼を使おうと
思っていた。
彼は平気でユダヤ系の音楽家を自分の演奏者に加えようと思っていたそうだ。それは
彼が政治的なことに関心が無かったのか政治音痴だったのか知らないが、そういう
ことよりも音楽のことしか考えていなかったようだ。

そういうことを踏まえて考えてみると、フルトヴェングラーはあの時代をよく生き抜いたな、
と思う。へたをすればヒトラーの機嫌を損ねることになり命の危険もあったろうに。
実際ヒトラーの機嫌を悪くさせたこともあったらしい。それも無事に切り抜けていた。

こういう写真が残ってしまっていることが、フルトヴェングラーの
不幸の一つだろう。彼の指揮ぶりを見ると音楽に集中している
ことがわかる。

このナチスドイツの中にいて、ドイツ人として暮らしていたなら、ナチがユダヤ人を
迫害していたことはさすがにわかっていただろう。
しかし絶滅収容所で行われていたことが知られたのは戦争が終わってからでは
ないだろうか。どのくらいのことまでわかっていたのか私にはわからないが、
あれを知っていたらさすがにドイツ人も平気ではいられなかったのではないだろうか。
まあ、知っていなかったとしてもユダヤ人を迫害していたこと自体許されることではない。
そこは日本も同罪だろう。

当然の結果だけれど、戦後はナチ協力者とみなされてしまったようだ。
だから正反対にナチスのいたドイツを嫌っていたトスカニーニとは最後まで会ったことが
なかったそうだ。

そんなわけで最近フルトヴェングラーを聴くようになった。
思うに、すごく新鮮だ。
最新のステレオ録音の演奏などよりも新鮮に感じる。
これはモノラル録音なのか?と思うほどだ。
トスカニーニとは全く違ってゆったりとして、一般的な演奏に聞きなれている耳には
これ遅すぎるのでは?とさえ思わせるほどだ。

田園を聴いた。
1940年の録音だ。
当然ベルリンフィルだ。
初めて田園を聴いた時の感動が蘇った。
大げさではなく。
これは過去あらゆる田園の中で最高の演奏かもしれない。