7/25/2017

マックとマウス

スティーブ・ジョブズの映画をやっているので見ていた。
そういえばマッキントッシュが世に(日本に)出た時のことを思い出した。
エレショー(何年だか忘れた)のアップルのブースにマッキントッシュが置かれていた。
白い四角い柱状の台の上に置かれていた。
確か仮想知能(AI)の簡単なデモをやっていた。
画面に出た質問にキーボードで答えると正解かどうかを応えたように思う。
やり取りは英語だったように思う。
私はアップルⅡのファンだったけれど、マッキントッシュが何か魅力的な
ものとは思えなかった。
その要因はハードウエアにあった。
つまり外付けのインターフェイスを作るための技術データが公開されていなかった。
一方IBMあるいはNECはハードが公開されていた。
だから外付けの映像メモリーなどを作ることができた。
仕事で使う上ではマックよりもIBMあるいはNECの方が便利だった。
結局そのままマックを仕事に使うことは無かった。

それに「マウス」だ。
今でこそマウスが無ければ何もできないが、その前史はキーボードしかなかった。
というかキーボードで何から何までやることが普通だったし、
マウスを触ったエンジニアは皆口を揃えて「あれは使えない」と言っていた。
ソフト屋はキーボードがあれば何でもプログラミングできたし、ハード屋は
マウスのような不安定な訳の分からないものを使いたくなかった。

しかし、私はマウスは使わなかったけれどトラックボールを使っていた。
図面を描くのに必要だったからだ。
パソコンもグラッフィク画面を元になにもかも行うようになって、マウスが
必需品になった。

全てをキーボードでやっていた頃は、ディスプレイが無くてもパソコンを動かすための
コマンドラインを打ち込むことが普通にできた。
でも今はもう画面を見なければキーボードを打つこともできない。

ちょっと思い出した。アップルⅡはファイル名にキーコマンドを入れることができた。
例えば TEST1[esc].doc のようにエスケープキーコマンドを入れられた。
でもファイル名にはTEST1しか表示されないから、他の人には開くことができない。
いまでも使えるんだろうか?


追悼 レオンラッセル

去年の11月にレオンラッセルが亡くなった。
結構ショックだった。
その頃多くのアーティストが続けて亡くなっていたように思う。
でもレオンラッセルはなにか特別だった。
ジョン・スチュワートが亡くなった時以来のショックだった。
レオンラッセルのアルバムはたくさん聞いた。
好きだった。

もう半年経ったけれど、追悼の意味でこれを彼のハンク・ウイルソンズ・バックの
コード風で演奏。あくまで「風」


明治大学1969

昨日「ジュン散歩」を見ていたら明治大学が写っていた。
建物は新しくなりすっかり都会の大学だ。
1969年の春にそこにいたことを思い出した。
まだ浪人中だった。
近くの予備校から何人かが一緒に明大に行こうということになって行った。
その頃まだ明治大学はバリケードの中だった。
どうやって入ったかよく覚えていないが入口があったように思う。
ほとんど人がいなかったように思う。
勝手に教室入り込んで、「ここで話をしよう」ということになって、
しばらくそこで「ああでもないこうでもない」と話をした。
その時には既に安田講堂は陥落した後だったから、焦燥感と惰性で
何かやらなければという感じだった。
その時のグループは5人くらいのよくわけのわからない人達だった。
一人女性がいた。イケメンのノッポが一人、理論派の固そうな人が一人。
もう一人はその理論派といつも言い合っていた男。
私は同じ予備校だったのでちょっと付き合っただけ。
一緒に行動したのは2回だけだった。

今日のジュン散歩はその予備校があった西永福だった。
どこもみな当時とは全く変わっている。
べつにどうでもいいが、あの頃には戻りたくない。

7/17/2017

軍歌とHome coming songs

ウッディ・ガスリーのトリビュートアルバムの一番最初の曲はDear Mrs Rooseveltとか
いう曲だった。確か。その冒頭でジェス・ピアソンがウッディの文章を朗読している。
とても劇的な伴奏が付いている。
その話の中で、兵隊たちがPXで酒を飲み歌を歌うシーンがある。兵隊たちは戦争の歌
を歌っていたのではない。彼らはHome coming songsを歌っていた。
歌を歌い故郷を懐かしいんでいた。
ということが語られている。

私の父は(私が子供の頃は)よく軍歌と言われる歌を歌っていた。
私はそのいくつかをよく覚えている。
しかしその後70年も近くなってくると軍歌を歌うシーンはほとんど覚えていない。
60年安保、70年安保と世の中は反戦・反戦と騒いでいたから、歌を歌うわけにも
いかなくなったのだろう。

父は終戦の時、何歳だったのだろう?と思って計算してみた。
30歳だ。
私が札幌から東京に戻った頃の年齢だ。
私がその年齢の頃に聴いていた音楽は今でも好きで聞いている。
父にとってその年齢の頃に戦争に行っていたわけだ。
つまり軍歌は父にとって青春の歌だったのではないだろうか。

それじゃ軍歌とは何だろう?
軍歌が戦意を高揚させる歌だとすると、今軍歌と言われている歌の中には
そうではない歌が多数含まれている。

「ラバウル小唄」だけれど、父はこれを良く歌っていた。
父はラバウルには行かなかった(と思う)けれど、よく歌っていた。
しかし、これが軍歌だろうか?
戦意を高揚させるだろうか?
まったく逆のように思う。
これは日本に帰る時の歌だ。

「異国の丘」は?
これだって故郷に帰るまではがんばろう、という歌だ。
「麦と兵隊」は?
こんな歌を歌って戦意が高揚するわけがない。
しかももともとは死なずに帰りたいという歌詞だったらしい。
「戦友」は?
これなどは「腰まで泥まみれ」の歌に近いと思う。
軍規に背いてまで友を助けようというのだから。
一つ前の戦争からの歌だけれど、よくこんな歌を軍はほっておいたなと思う。
みんなHome coming songsだ。

日本で今日「軍歌」と言われている歌の中には「戦時中の歌謡曲」が多数
含まれていると思う。そういう歌を一緒くたに「軍歌」と言って忌嫌うのは
間違っているように思う。

7/15/2017

飛燕の操縦士

仕事で知り合った人で印象に残っている人が何人かいる。
その一人は三井さんという人で知り合った時に既に80近かった。
10年くらい前の話だから今存命かどうかわからない。
逆に言えば、あと十数年経ったら自分も「あの人ご存命かしら?」とか言われて
いると思う。

三井さんは飛燕に乗っていた。
中国の方で飛んでいたらしい。
三井さんに体験記を書いてほしいと頼んだら、ワープロソフトで書いてくれた。
そうだ、思い出した。
そのワープロソフトの入ったパソコンのメンテナンスに伺ったのが最初だった。
三井さんは毎年百里基地の航空ショーに招待されていたそうだ。
たぶん特別待遇だったと思う。
三井さんのお宅に最後に伺った時には歩くのが辛そうだった。
そうだ、その後で道で奥さんと二人で歩いていた時にお会いした。
それが最後だったかもしれない。

馬さんという人がいた。
中国からの留学生だったけれど、国に帰れば大学の教授だった。
馬さん(マーサン)には仕事でソフトを作ってもらっていた。
私が身元保証人になっていた。
Cが一般に使われ始めた頃の話だ。
とても頭のいい人でNECの(MSの)OSの不都合なところを修正して使って
いたりした。
ある時、深刻な顔をして現れた。
天安門事件の起きた時だ。
一度国に帰らないといけないかもしれない。と言っていた。
理由はわからないが、仲間の学生が逮捕されたからだったろうか。
国からの連絡で警察の聞き込みや密告などがあったそうだ。
馬さんとはその後10年くらい前に中国とメールで話したことがあった。
馬さんは有名な大学の教授になっていた。
立派な先生になっていたようだ。

東京に帰ってきて最初に勤めた会社にアダルトの映画に出ていた女性がいた。
なぜ彼女がその会社にいたのかは後になってわかったのだけれど、
私にはその可憐な可愛らしい女性がアダルト映画に出ていたとは
全く知らなかった。
普通に話をしてコピーや印刷物を頼んで一緒に食事したりした。
彼女が映画に出ていると知ったのは同僚が雑誌のグラビアを見せてくれた時だ。
彼女とは半年くらい一緒に仕事をした。
その後会社には来なくなった。
1年後くらいに会社のあったビルの玄関でばったり会った。
仕事で外出する時だった。
彼女は玄関の端の方に立っていて私の名前を呼んだ。
そばに行くと、社長がいるかどうを聞いた。
それから私は会社を変わったので彼女と会うこともなくなった。
しかし、その後テレビで良く彼女をみるようになった。
名前は違っていたけれど芸名になったのだろう。
バラエティー番組でアシスタントのようなことをしていた。
それからしばらくしたら、彼女はカーレースに出ていることがわかった。
レーシングドライバーとしてだ。
すごいなあ、と思った。
その彼女をついこの前テレビでみた。
歳はとっていたけれど雰囲気はそのままだった。


























7/14/2017

半田付け不良

非常に気に入っているMTRがあるのだけれど、
小さくて基本機能だけで8トラックあって持ち運びにとても便利だ。
それのACアダプターのコネクター部が接触不良で差し込み部に触れると
電源が落ちてしまうという不具合があった。

しかたないのでずっと接着剤でプラグを本体に固定して使っていたのだが、
それでもちょっと何かが当たると電源が落ちてしまう。
それで別にZoomのR8を買って使っているのだけど、これはこれで必要のない
機能が時々じゃまをして使いにくい。
「それいらないから!」ということなんだけれど。

それで意を決して不具合のMTRの方を直すことにした。
前に一度開けてコネクター部に触れないことがわかって中断していた。
今回は徹底的にやろうと思った。
裏ブタを開けると基板の下にコネクターが付いていて触れない。
基板はネジを外しただけでははずれない。

ちょっとその前に電源を直付けしてみようと思い、ACアダプターの5Vを
基板のコネクターの5V部分の足とGNDの足に半田付けしてみた。
これで電源が入るはず。
と思いきや、電源が入らない。
それでそのままACアダプターのプラグだけ(何もついていない)を差し込むと
電源が入る。しかしちょっと触ると切れる。
という症状が変わらない。

これは変だろう?
とプラグを動かしながら基盤を良く見るとコネクターのGND端子が基板から
浮いているように見える。
ルーペで見ると明らかにコネクターのGND端子は半田は盛ってあるけれど、
基板についていない状態で浮いている。
しかもそのはんだ付けはまるで素人がやったように丸く団子状になってる。

原因がわかった!
コネクターの半田を一度吸い取って、基板のフラックスを削り取り
再度半田付けをした。
これで大丈夫だろう。
電源を入れると入った。
プラグを動かしても電源が切れることがない。

しかし、こんな半田不良は日本国内で作っている時にはめったに見たことがない。
その昔、まだ技術が初期の頃のオーディオ製品にはあった。
でも90年以降は見たことが無い。
工場が外国に移って製品は安くなったのだろうけれど、
中身まで安くなるのはどうか。

かの地の製造は、まだしばらくは信用できない。
あるいはそのつもりで使わざるを得ない。














7/13/2017

風に薫る夏の記憶

…何だって?
これはお前の記憶じゃないだろう?
まあそうかもしれない、でも誰かの記憶は俺の記憶なんじゃないだろうか。。
特に夏の記憶はみな同じ記憶を持っているんじゃないかな。
たぶん夏の記憶は全て幻想
大昔の古代の人達の記憶も
遠い未来のどこかの惑星の上の人達の記憶も
たぶんみんな同じ


もう5年も前になるけれど、夏の歌を探していた。
いろいろ聞いていたら
「君の知らない物語」という曲があった。
supercell?
  たぶん私の子供達の世代の歌だろう
  いやひょっとするともっと下かもしれないけれど
これは夏の歌だと思った。
記憶が重なっている

今日も暑い
それでまた夏の歌を探していた
いろいろ聞いていたら
「風に薫夏の記憶」という歌があった。
AAA?
  これでさえ
  もう3年前の歌みたいだ
これも夏の歌だと思った
記憶が重なっているから




7/11/2017

ガソリン自動車

フランスがガソリン車の生産をやめるという話が出て、将来ガソリン車は
すっかり無くなるだろうということが現実味を帯びてきた。
大気汚染の元凶であるかもしれないし、そのうち石油も無くなるかもしれないし、
電気の方がいろいろ良いことがあるのだろう。
でも電気で動く自動車は何か面白くない。
あの音も無く動き出す感覚はだめだ。お尻がもぞもぞする。
電気自動車の自動車レースも面白くない。
テレビの音を消してF1を見てるような感覚だ。

始動する時のエンジンの武者震い。
排気ガスの匂い。
ハンドルに伝わるエンジンの振動。
エンジンブレーキの時の逆Gとエンジンの咆哮。
しばらくしたらその全てを知る人間はいなくなってしまうだろう。

遠い遠い未来に「魂の駆動体」のように、車人間の遺伝子を持った未来人が
ガソリンエンジン自動車を再現して、どこかの惑星の上を走るだろうか。

あるいは人類が絶滅した後で生き残っていた野生馬が蘇り
人間のいない大地の上をエンジン音を響かせて走ることがあるだろうか。
誰のSFだったか忘れたけれど
高斎さんだったろうか。
遠い遠い未来にもどこかでガソリン自動車が走っていてほしい。


7/10/2017

星まつり

また思い出したことを書いておこう。
たぶん1990年頃だったけれど、新潟県の胎内市で行われている星まつりに行った。
これは月刊天文ガイドが後援している催し物なのだけれど、私はその頃ペルチエ素子
で冷却したCCDカメラを試作していてそれの紹介記事を天文ガイドに載せてもらった
ことでその会場でデモすることになっていた。
詳しくは忘れてしまったけれど、スタティックRAMを使ったメモリーを使って
CCDに蓄積した映像データを撮りこんで表示するものだった。
CCDは蓄積時間が長くなるほど熱ノイズが増加するのでそれを押さえるために
ペルチエ素子で冷やしながら撮像するのがみそだった。

会場は丘というか山の中腹のような場所にあった。
車で行ったので登るのに苦労した記憶はない。
その当日はあいにくの曇り空で星は見えなかった。
でもいろいろなプログラムがあって、けっこうにぎわっていたように思う。
確かそんなに夜遅くならないうちに帰ってきたように思う。

トランジスタ技術には何度も記事を載せたことがあるけれど、
天文ガイドはその1回だけだったように思う。

7/08/2017

アイヌとインディアン

…について前に書いたけれど、ちょっと認識が違っていたところがあるのでまた書いてみようと思う。
アイヌは意味としては「人間」ということなんだけれど、
モシリは「土地」だから、アイヌモシリは「人間の土地」ということになる。
それを入れ替えると「土地の人間」ということになり、つまり土人だ。と前に書いた。
だから「北海道旧土人保護法」というのは正しく北海道がアイヌの土地であることを
図らずも示していると思う。
一方、インディアンだけれどネイティブアメリカンの約半数は自分たちを「インディアン
と呼べ」と言っている(10年くらい前の統計調査)ということを前に書いた。

これは「お前たちが名付けたくせに今更何がネイティブアメリカンだ!」
というニュアンスで言っているのだと思ったけれど、
よく考えてみるともともと「インディアン」と名付けたのはコロンブスがアメリカ大陸を
インドと誤認したのに始まるわけだから、コロンブスが「発見」した時に住んでいたのは
間違いなく「インディアン」だったわけだ。
つまりインディアンという名前はインディアンがアメリカの先住民であるということを
暗に示していることになる。
これは北海道がアイヌモシリであるのと同様に北米大陸がインディアンモシリであること
と同じ意味になる。
どうも「アメリカ・インディアン」という名前を主張している人達はこの意味で言って
いるようだ。だから「ネイティブアメリカン」という名称の方が差別的であると言って
いる。
日本では「インディアンって言っちゃいけないだよ、ネイティブアメリカンって言わなくちゃ」というのが通説だけれど、そんなに単純な問題ではなさそうだ。



7/06/2017

秋葉原

最近、というかここ10年くらい、秋葉原には行っていない。
だから今(2017)どうなっているのか全く知らない。

記憶にある最も古い秋葉原はスピーカーを買いに行ったときじゃないだろうか。
中学3年の時だから、1964年だと思う。
もっと前の記憶もあるのだけど確かではない。父と一緒に歩いた気がする。
スピーカーを買いに行った頃はまだオーディオ全盛期だった。
スピーカーユニットだけを売っているお店がいくつもあった。
みな四角い箱の上を丸く切ってスピーカーをはめて音を聞けるようになっていた。
それで聴いても音の良し悪しなどわからなかったろうが、皆それで聴いていた。
私が買ったのは確かパイオニアの20cmくらいのものだった。
いくらだか忘れた。

それからしばらくの間がオーディオ全盛期だったと思う。
ガード下の部品屋はそれ以前からずっとあった。
今でもまだあるだろう。あってほしい。
その頃は店頭にシャシーに部品を乗せただけの5級スーパーのラジオをまだ売っていた。
それに合わせて組み込むとFMの受信ができるユニットも売っていた。
さらにFMの受信ができるラジオに組み込むとFMステレオ受信ができるユニットも
売られていた。みな真鍮のシャシーむき出しで売られていた。

まだオープンリールのデッキが普通に使われていた頃なので、オープンテープを店頭に
平積みして売っていた。新品のものが売られていたが、再生品というものも売られていた。再生品のテープは放送局やレコード会社で使ったテープをそのまま売っているものだった。だからテープにはいろいろなものが録音されたままだった。ラジオ放送やテレビ放送の音がそのまま残っていたので、買って聞いてみるとムード音楽やドラマの声を聴くことができた。テープは編集されているのでブチ切れ状態でつないだものだった。
それを使う人はみなその上から音楽番組等を録音して使っていた。
今思うと消さない方が貴重な録音が残ったような気もする。

その頃のテープに録音したものを持ってくるお客がいるが、つないだ部分からみな切れてしまう。当時のスプライジングテープの粘性が全く無くなっているからだ。
1本のテープで50か所くらいつなぎ直さないといけないものもある。
そういう自分のテープもその状態のものがある。
それに磁性体自体がだめになってきている。磁性体がテープからはがれてしまう。
たぶん50年くらいが限度だったのだろう。

ラジオは半分くらいは真空管だった。5級スーパーは文字通り5本の真空管でできていた。このスーパーヘテロダインというのは誰が考えたか知らないが、天才的な発明だ。
天才的と言うのは歴史の中で生まれるべくして生まれたものだろう、という意味でだ。
テープデッキもステレオアンプもチューナーもほとんど真空管だった。

それからすぐに半導体に移行していったように思う。
ラジオガーデンの中は人がすれ違うのが大変なほど混みあっていた。
テープデッキのヘッドを売っているお店があった。よくそこに行った。
4チャンネルのヘッドをそこそこ安く売っていた。
レコード用のカートリッジとトーンアーム関係だけを売っているお店もたくさんあった。
楽器屋は無かった。カメラ関係も無かった。
オーディオと無線関係がほとんどだったと思う。
勿論ジャンク屋はあった。

オーディオの時代はたぶん1976年頃までだったと思う。
1975年頃にTK80(ティーケイハチマル)が出たのが「マイコン」の時代の始まりだと思う。オーディオは半導体とICになり小型化されていた。
店頭でTK80のデモを見ることが多かった。自分でマイコンボードを作る人も出てきてマイコン用の部品がオーディオ部品に並んでいた。
オーディオもIC化されて行って、それまではエコー(リバーブ)はスプリングを使ったものが多く、やはり真鍮の羊羹のような形をしたリバーブユニットが店頭で売られていたが、それに代わってBBD(バケツリレー素子)が使われるようになってきた。
リバーブは数年後にはD-RAMを使ったマイコン制御のものが出てきて、D-RAMの容量がまだ小さかったため結構ガタイの大きなリバーブ・エコーユニットが売られていた。

マイコンがパソコンになって行った頃には秋葉原はパソコン関連が増えて行って、逆にオーディオ専門店は消えて行った。1980年以降だろうか。
それでもまだオタク系の店は無かったように思う。
ソフマップ、Tゾーン系列が目立っていた。

あ、そうだ、まだ野菜市場があった。
あれはいつ頃まであったんだろう?
あれを壊し始めてからあたりがオタク系が侵食始めた頃なんじゃないだろうか。
気分的にはそんな感じだ。

当時、日の丸無線の社長さんの話だと。

昔はラジオの仕掛品を店頭につるしておくとすぐに売れた。いくら仕入れてもすぐに
無くなった。バスに部品をたくさん積んで各地を移動秋葉原ショップとして回った時
は各地で大勢の人達が買いに来た。来るのを待っていてくれた人もたくさんいた。

ということだった。
今だとアマゾンやネット部品ショップでほとんど買えるが、当時はネット自体が
無かったから、人気だったのだろう。

秋葉原では1981年から10年くらいいた。
秋葉原のど真ん中の会社に1年、それから近くの会社に移った。
移った、というか3回会社を変えた。
その3回の内2回は自分たちで始めた会社だった。